2011年6月22日(八段語録1352)

私と全国組織(22) 空手道とは人格の延長である

 空手道は実に私にとって重荷であって、人生にとっては必要とするものであったのです。実にこの道は、困難であったのにもかかわらず、祝福の礎であったのです。もし、空手道を失うとするならば、私の心が傷つくのです。それは、もちろん金銭ではなく、私の誇りと名誉なのです。
 何故そのように考えているかというならば、空手道が自分の人格の延長になっているからなのです。その源を正せば、自己実現に至るからであり、修行の道を通じて自己管理を可能ならせしめるのです。この修行が、自らの価値を測定し、自らが何であるかという本質と属性を追及する事が出来るのです。
 ところで、本質はというならば、精神的な部分であり、心に該当するのです。方向を変えてみると知情意の人格ということになります。この心の分野を如何に成長させることが出来るかという事が空手道の課題ということになります。
 さらに、属性という事を検討すると、強靭な肉体の完成という事を意味します。二十歳前後で、大人の身体を作るのですが、ここに空手道という一つの道を追求した肉体の成熟度を目指すのです。それだけではなく、成長した肉体を如何に維持し、最大の機能を発揮させるかが、空手道を通じての属性という意味合いになります。
 このような前置きをして、空手道の人格面を追及するわけですが、ここで修行が結び付くのです。つまり、完全性を求めようと心がけるのです。それ故に、空手を追及する意味と価値があり、挑戦せざるを得ない責任があるのです。もうこの言葉を私の気持ちとしては、消す事が出来ないくらい重要な事なのです。
 私が、極真会館の門を叩いたのは、二十歳前後だったのですが、その時、私は何になろうかという事はあまり考える事も無く、分かっていることというならば、未熟そのものであったという事なのです。私にとって何が得意で、何をすべきかを悟るようになってきたのは、ブラックベルトを締めてからなのです。
 ブラックベルトを締め始めた時に、より完全なものを求めようとしたのです。それで、この帯に恥じないように挑戦して帯に恥じないように生きようと、私の道標にしたのでした。そして、何歳になっても歩き続けることを決意したのであり、失敗し続けるに違いなくとも、完全を求める空手道へとのめり込んでいったのでした。
 この事が、空手道から私に侵入したインパクトであり、不可能を可能にしてしまう決意になったのです。このインパクトの除去は、死を意味するし、社会に対して、積極的に推し進めていく原動力として空手道は必要不可分になったのです。