2013年12月13日(八段語録1925)

指導者に告ぐ(30)


 稽古をしているときは、悲しみとか幸せという感性は浮かばないのです。私も親父が死んだ時とか、家中がうまくいかない時とか、色々な事があったとしても、稽古をしている瞬間は忘れることができるのです。悲しみとか憂鬱から引き上げられるほどの興奮なのです。人生の壁を抱えて一時であったとしても、稽古で超えられるものがあるという話です。指導者となれば、専門的な知識が身を助けます。私からするならば、道場生は息子のようなものです。極真の伝統を受け継ぐのは、彼らなのです。
 指導者として、道場生に話しかけ、このような稽古が何の意味を持つのかを説明します。そして、道場生は、助けが必要な訳ですから、道場生に感動を与えるような指導をするのです。それから、地域に出かけて、地域の名士と友達となり、それから彼らに青少年教育の意義をしっかり伝え、教室も見てもらうのです。私達の教室の稽古を見るならば、彼らは興奮するのに間違いはなりのです。そして、稽古の内容を誇り、分かち合います。極真空手を中心に、訴える道があるのです。極真空手を彼らに分かち合うようになれば、彼らも皆さんと分かち合うようになるのです。このようにして、極真空手を理解してもらって、なおかつ、この素晴らしさを、感じてもらって、教室運営の目的を達成させたいと思うようになって欲しいのです。
 それだから、指導者とは、希望を大きく持つべきです。私たちの人生は、多くの事をやっていますし、私としても多くの企画に責任を持っていかなければならないのです。私は、全日本で大会に出場し試合をしていた時のことを思い出すのですが、当時、全日本に出るという事は、道場生でさえ、危険極まりないと思っていたのです。そのような意味では、身内でさえ、厳しい道であると理解していたという事になります。今では、大会がどれほど偉大なものであるのか、誰もが理解することになっているのです。
 私は、確かに頭が狂っているのだと思います。まだ、還暦を過ぎても、あの世へ行く為のお迎えはまだのようです。この極真の道は成功するだろうという事を、理解してほしいのです。このことは、私の経験からして、疑問の余地はないのです。私が明日、何かであの世に行くことになったとしても、次の世代の指導者が、この道を背負っていくはずです。誰かが背負うような伝統がもう既にてきているのです。自分の命を懸けても、この極真の道を考え成就しようとする指導者が将来出てくることになるのです。私として、いったんこの極真の道に触れたからには、決してそれは滅びないのです。どんな状態でも、発展させ、復興させるのです。だから指導者の皆さんは、決意しなければならないのです。極真の道を行くという決意をしなければならないのです。