2013年11月29日(八段語録1911)

指導者に告ぐ(16)


 これからの空手道の本流の歴史の目標になるべきことが、私たちの願いであり、最後の結実に至らなければならないと思うのです。初期の極真会館において、マスメディア・伝統空手界と、あらゆる試練の真っただ中に置かれました。何か新しいものが芽生えるときには、必ず、その団体の活動は、滅茶苦茶にされるものです。こういう事を考えると、試練の道を極真会館が辿ってきたことは至極当然のことなのかもしれません。大きな木になる果実のように、最終的に成熟して収穫されるという道は、生易しいものではないのです。
 季節の訪れと共に、災害が待ち構えて、暴風や台風のような風によってもぎ取られてもしまいます。しかし、枝にしがみつき一体となっている果実は、成熟というものを全うするのです。同じことがあらゆることに起こるのです。だから、全部を見るまでは、全部が起きてしまうまでは、最終的な判断をすることなどできないのです。試練というものは、最終的成長に至るまでの一種の教育だと思わざるを得ないのです。だから、私たちとて、避けて通ることはできないのです。その点は、はっきりさせなければならないのです。私たちの目標はなんであるのかを再度検討しなければならないのです。
 それでは、それは一体何でしょうか。それは何か価値あるもの、やりがいのあることをしたいという事を思っているのです。極真会館に入って、指導者の皆さんは未来に起こる最終的な結実を見ているのだと思うのです。だから何年も活動してきたのです。極真会館の歴史と、日本の歴史には多くの共通点があります。日本の歴史はある目標点に向かって出発し、多くの人は、あることを始めればそれに不平を言って去り、それからまた別の者たちが加わって、そして他の者たちが去っていくという事の繰り返しです。
 極真会館の歴史でも同じような事がありました。この葛藤を繰り返し経験してきている中で、これは、利己的な望みと、極真会館の望みとの間の葛藤です。それゆえ、指導者の中には、三種類の人たちがいると思うのです。前進しようとする人たち、現状を維持しようとする人たち、そして他の人たちを引きずり下ろそうとする人たちです。日本の歴史と極真会館の歴史も同じなのです。