2013年11月16日(八段語録1898)

指導者に告ぐ(5)


 何かに取かかろうとすると、私は誰よりも早くしようとします。道場での稽古は、誰よりも一生懸命になります。そして、稽古が終わった後でも好奇心を持ち、熱狂的あらゆるものを学ぼうとするのです。誰かと競争し始めた場合には、その人と同じ分野で活発に行動し始めるのです。もし、競争相手が何かで秀でたものがあれば、何かをやって、少なくてもじっと座っているという事は無いのです。
 例えば、試合で負けたとします。悔しくてたまりません。そういう事がないと、空手道というものを理解することができないのではないかと思うのです。負けるという事はそれほど悪いことではありません。負けることによって、それがどういうものであるかを味わう事ができるし、負けず嫌いの気持ちが強くなるので、そのことによって頭脳を使うようになるのです。そして物事を早く判断できる人間に成長するのです。
 敗北の体験は、あらゆる状況下で敏速に物事を考え、即座に何かの行動を取れるようになっていくのです。それが敗北から学ぶ教訓であり、それこそがチャンピオンへの道であるのです。そのような積み重ねでチャンピオンになって、あらゆる状況下のもとでも活動的で、物事を極めて速やかに決定できるようになるのです。また、チャンピオンは前進すべきか、後退すべきかを知り、それを行動に移すようになるのです。
 私は還暦を超えましたが、何かを話したり、書いたりすると興奮してくるのです。誰も私が年寄りには見えないようです。現役そのもののようになります。そしてそれは、素晴らしいと思えるのです。指導者は、当然私を超えていかなければならないのです。やさしい指導者を目指すならば、はじめは荒々しくなって、それから後にやさしくならなければ、馬鹿にされるだけです。なぜならば、人生のあらゆる側面を体験せずして、指導者にはなれないのです。そのような人材を私は必要とするのです。
 ただ座って何もしない指導者は不要なのです。何か尋常でないことが起こったとしたならば、真っ先に飛び出すのが指導者なのです。もし何かがあったならば、私は大声を張り上げるのです。そして義を通すのです。山頂で大声を上げれば、少なくても山彦が帰ってきます。この山がすることすらやらない指導者であっては話にならないのです。岩ですらぶつかると、力は力で答えます。
 指導者が心に何か引っかかることがあり、私は正しいと確信があるならば、それについて何かしないわけにはいかなくなります。私は攻撃的性格ですが、時として忍耐することもあります。私にとって、誰も指導的立場にたって、ただ座って一日に三度、それが一年食事をしながら、何もやらないことは不思議で仕方がないのです。そのような側面がない指導者になることを希望しているのです。