2013年11月15日(八段語録1897)

指導者に告ぐ(4)


 とても単純なことなのですが、道場生をチャンピオンにさせるには、指導者自らを訓練しなければならないのです。何を訓練するかですが、ただ一つのことではなく、色々な側面から訓練するのです。何百という方法があるのです。精神面もそうですが、突き、蹴り、捌き、技術面においても様々です。例えば、頭を低くして拳を上に上げる場合もあります。道場生が真剣であり、そして大会に出場した場合ならば、技術に立脚して本当に戦う必要があるのです。そうすると四肢五体を使ってよい結果を残すように努力せざるを得ないのです。
 もし、道場生が真剣なファイターであり、追い込まれるようなことにでもなれば、あらゆるものを駆使しなければならないのです。そこで試合を見守る指導者は「どのようにあらなければならないか」という事になります。その時に問われるのは、傍観者であるのか、それともチャンピオンであるのかということなのです。その試合にほかのどんな人よりもより多くの関心を持ち、より多くの愛情をもって見つめるべきであり、そのような指導者が真のチャンピオンであるべきです。
 よく試合場で見かけるような、自分の道場生だけを応援して、はしたない言動を取るのが、指導者としてのチャンピオンとは思わないのです。それゆえ、どのような行動を取らなければならないかは、自明の理であるというのです。そのようにして、チャンピオンは作られるのです。指導者は心も体もすべて完全に投入しなければならないのです。
 特に言いたいことは、心の部分です。指導者が道場の方針を批判しようとする行動者や、責任を持つ師範の悪口を言う事などは論外です。何かを言いたいのであれば、膝を交えて話せばいいのです。それでも受け入れられないことは、多いのです。私の場合などは、本部道場では、完全自己否定でした。存在そのものも否定されたし、稽古から追放されたことも何度かありました。それでも、最後は押忍の精神で仕えたのです。それを大山総裁が評価しないとでも言いうのでしょうか。そんなことはないのです。いつか時がくれば、叶えてくれるときが来るのです。私の場合、四半世紀過ぎて今という事もあるのです。長いスパンで見ましょう。タイムラグは必ずあります。
 ともかく、指導者が目指すことは多種多様であり、チャンピオンとしての道も、一つではないのです。それでも、指導者は道場生を一か所に集めても、道場生を心から感動させる指導は必要です。一緒にいる道場生を楽しくさせる人間になって欲しいのです。石木のように、無表情で不活発ではいけないのです。あらゆることに関心を持ち、道場生を興奮のるつぼに入れてしまうような人でなければならないのです。そうすればすぐに道場生は来るなといっても付きまとうようになります。