2013年11月13日(八段語録1895)

指導者に告ぐ(2)


 道場生に稽古をつけるときには、道場生の心を見て指導しなければなりません。もし道場生が心から指導を受けようとしなければ、誤って事故を起こすことにもなります。その時は、見学させるか、家に帰すべきです。まっすぐに指導者が道場生を見て、目をそらさず、教えを受けようとする気持ちのある時だけ指導すべきです。なれ合いのスポーツ感覚ではいけないという事です。
 基本稽古から始まって、突きや蹴りの正しい用い方も彼らに示さなければならないからです。時には、道場生に稽古をつけて、技の使い方をどうするのかの模範を示す必要があるのです。指導者とは絶えず一つ一つの動作についてどうすべきか、道場生に示します。どんな小さなことでも、決して道場生をほったらかしにしてはいけないのです。
 このようにして、指導者は多くの道場生に稽古をつけなければならないのです。人を教育し訓練するという事は、このような事を連続させることなのです。指導者のところで「道場生を訓練して、立派な人材に育て上げた」という誇を持てなければ何の意味もないのです。そのような意味で、指導者が身体を張って教育しなければならないのです。
 しかし、指導者が道場生に稽古をつける前に、自らすべて稽古をこなすことができなければならないのです。指導者は、自分の力で一つ一つやり遂げなければならないのです。指導者にとって事前稽古は必死なことです。そのような意味で、菅野師範を必要とするならば、指導者自身がはっきりとした指導の稽古を全うしようとすべきです。私は、凍時、一点から凍る自然現象を知っています。宮城県本部の発展も一点からです。頭が二つ三つあるようでは、統率がつかなくなるのです。
 中心は誰でも良いというわけではないのです。適切な人を中心として「彼が必要だ」と認めたのです。この人を中心とすべきだと4年前に決定したのです。それだから、指導者の皆さんはその人のために最善を尽くすような努力をしなければならないのです。「私は彼に付く、いや別の人に付く」ではまとまらないのです。彼の指導を受け、彼を支え、彼を補うべきです。つまり、楽天の日本シリーズ優勝シーンのように一つになることなのです。
 彼と共に一生懸命に一致団結して指導者としての自覚をしてこそ、私も安心して見つめることができるのです。心から中心と一つになって、最高の極真を築き上げるべきです。それは強制ではなく、信頼関係の中での阿吽の呼吸なのです。不平不満からは何も発展は望めないのです。
 一方的な支え方という事もあります。つまり恋愛でいうならば片思いのようなものです。いったん支えると決意したならば、他の人が何と言おうと関係がないのです。私と手塚会長の関係がそうなのです。重要な事は、私が会長の事を慕っていると同じように、指導者が中心をどう思うかです。私は会長に仕えます。例え反対されても、それでも支えることをあきらめないのです。