2013年11月10日(八段語録1892)

「切腹」


 私たち日本人は、「切腹」という事をしてきました。映画で見るように腹を切る儀式でした。侍が何かの過ちを犯した時に名誉ある「死」という事でした。自分の責任を成就できなかったならば、解雇される代わりに自らの命を断ったのでした。
 現実に武家社会では日常茶飯事の出来事のようでした。苦痛を和らげるために、介錯人がいて、首をスパッと切っていったのでした。その人の敵ではなく、もっとも身近な人が介錯したのでした。親愛の友とか、もっとも近い親戚の人が首を切ったのでした。
 そうすることによって迅速に生命を断ち、苦しむ間もなく他界させるためでした。一つの仕事をするという事は、名誉な事であり重要だったのです。またそれほどの真剣さが生命と直結していたのです。侍はいつも危機にさらされていたのです。
 今の社会人にこのような概念は全くあてはまらないようです。責任を果たせなくても、切腹するだという気持ちなど毛頭ないのです。しかし私たち日本人は、侍の歴史の中でそういった誠実さと真剣さを経験しているのです。当然武士は争いの時などはその力を発揮してきたのです。
 私たち日本人は、戦争でなくても、その侍精神は一部持っているのです。だから、戦後の復興も急速に発展させたのです。世界の中での経済発展を見ても大きな業績を上げているのです。私たちは、物事について怠け者ではないのです。仕事の分野でも、自分の首をかけて、命懸けに取り組むのです。
 そういう意味では、仕事に成功しなければ「切腹」もやむなしという気持ちを持つのです。聖書にも「死なんとするものは生きる」と書いてあります。日本人はその侍の伝統ゆえに、日々の生活の面でも最善を尽くさなければならないのです。もし、私たちがこのような猛烈精神であるならば、多くの責任を果たすことができるのではないかと思うのです。
 このような精神ゆえに、私たちは多くの障害を乗り越えていくことができるし、諸国を量がすることになるのだと思うのです。