2013年11月1日(八段語録1883)

空手の道(1)


 極真会館は、実践空手の正道の役割をしているという意味で、極めて元祖的な意味合いを持っています。私が極真空手の道を究めるために道場に通い続けてきたことは、今でさえ奇跡に思えるほど、魅力に取りつかれたものでした。
 だから、本質に入る前に、極真空手について少しだけ話してみたいと思います。もし、道場生が、極真空手について考えるならば、空手道の王道を全うしていると考えるべきです。実践空手の最高峰であると考えられるほど、際立っているのです。全日本に出てくる選手達の技は美しく感じることができたのです。
 極真空手は、武道であるために、完全に心身を鍛えるのです。相手と対戦するときは、手足が武器になり、体を最大限に活用するのです。ちょうど、新幹線や旅客機のような概念に似ているのです。最高速を出すために最大限の能力を発揮するのです。つまり、デザインが空気抵抗を効率的なものとしてしまうのです。人間の肉体に対しての最大効率をもたらすのが極真空手ということに思えるのです。
 そして、極真空手の概念は、日本の一か所に留まることなく、最大効率をもたらし、世界を股にかけたのです。そして、世界の多くの人に影響を与えているのです。さらに、極真空手は、人格教育という側面を持って、しっかりとした人格を形成するし、締まった体を身に纏うことになるのです。将来は、世界を背負う人材を育成することは間違いがないのです。
 極真空手は、興奮とスリルが大きい武道という側面があります。空手道を究めるということが、道を求める人に取って究極的な目標となりました。さらに、技術を完成させることによって、極真空手の、世界の人々の関心を引き付けることになりました。極真空手は奥が深いから、それをマスターするために、道場生が賢く振る舞わなければ、自分のものにならないのです。途中で挫折しては話にならないわけです。
 このような理由からも、道を求めようとする人は、必要に応じて極真空手の修行に焦点を合わせるようになるのです。多くの女性がダイヤモンドを持つことを夢見るように、道を求める者にとって極真空手の究極に夢を託せるようになるのです。極真空手は戦いが本質です。だから私は好きなのです。道場生が目標を追求し、勝利を勝ち取ることができる準備ができるというのも、このような意味合いがあるのです。