2011年5月11日(八段語録1310)

復興への道(27)

 空手道という道を追及して、もう既に40年近い年月を過ぎてしまいました。風雪に耐えながら、よくやり続けてきたという自分の印象なのです。道場に通い、稽古をするという行為の継続は、振り返って見て堅実な生き方であり、このパターンの生き様は、私を全うな人間として確立させてくれているのです。それも、誰もが、このような歩みを続けている限り失敗するという事は無いとの確信まで得るのです。
 ところが、今まで多くの道場生を指導して、気がつくことは、この堅実な生き方を実践するのを途中で諦め、結果として最も危険な生き方をしてしまうのです。道場生の多くが、悩み、迷いというような状況の中で、空手道という柱を捨ててしまうのです。
その柱を失う事によって、堅実な生き方をチョイスしてきたにも関わらず、生き方の変動と共に、自らの精神をコントロールするという意識の低下をもたらし、社会の動向と共に多くのリスクの中に首を突っ込んでしまい、抜け出せなくなってしまうのです。
例え修行をして空手道を極めたからと言っても、社会の動向によるリスクはなくすことはできないのです。しかし、最小にする事はできるのです。少なくとも、極真会館が目指す空手道を追及しながら一定の範囲の中で、リスクを抑えることができるのです。
つまり、空手道という人生の指針を、修行における稽古をする事によって、人生のリスクの予測はもとより、管理の可能性を見出す事ができるのです。つまり、平たく言うならば、人生を堅実にする武具を身につけることになるのです。それが取りも直さず自己主管という事になります。
 さらには、純粋に極真空手の修行を稽古で実践する事であっても、指導者と一つにならなければ、方向性がぶれるのです。ようするに指導者と意思疎通ができなくなってしまうのです。その為に、意志薄弱な自らの精神態度によって、環境の誘惑に負けて、社会の動向という冷たさの競争に対して、身を守ることができなくなるのです。
 今日も説教から入ってしまいました。私が自分に言い聞かせている事なので、心に止めてもらえれば幸いに感じるのです。さて、今日の練習は武道館の弓道場でした。震災の為に、柔道場や剣道場が荷物置場になっているのです。その代わりとして、武道館の責任者のご厚意によって提供して貰ったのです。
 道場生は、変わった雰囲気の中で稽古をしたわけでしたが、しっかりとした稽古をしてくれました。3・11の大震災後、久しぶりという道場生もいて、息遣いが荒くなっていました。それでも、短時間でしたが、しっかり稽古を積んだ時間を過ごしたのでした。