2011年5月8日(八段語録1307)

復興への道(24)

 朝4時起床、5時から家族と博先生と共に朝の活動に出かけます。今日の日差しは五月晴れでした。外に出て清々しく心を満たしてくれます。昨日博先生と話していて、私達の学生時代の話になりました。博先生は、学生時代優等生のような生き方をしていたのです。高度成長時代の申し子のような学歴社会を生き抜いてきたのです。
 ある意味で勉強に一生懸命になり、競争をともなう心理的圧力と精神的ストレスを感じながら努力してこられたのです。そこには、勝者がいれば敗者がいる世界です。そこで勝ち抜いて頑張りだったようにお見受けしました。当然これからも、勝敗を決する政治の場に身を置くのです。
 ところが、私の学生時代の話をしてみると、受験や学歴とはあまり関係のないようなのです。自分で話してみて、びっくりです。中学時代は、姿三四郎のドラマの柔道が自分の憧れであり、黙々と柔道場で稽古をしていました。教室の授業はほとんど後ろの席でうたた寝なのです。高校に入っても、柔道部の仲間と煙草と酒を愛用する部員と同調していたのです。学校が、将来に向けて競争の場であり、成功を勝ち取ろうとして、医者や大学の教授、キャリア公務員のような知的労働者になるといったことは、考えていなかったのです。
 私の場合、学業が疎かになり、失敗するという概念がほとんどなかったようです。しかも、自分が納得しない勉強や競争にはまるっきり関心を持たなかったのです。すなわち燃えるものだけを、追求した人生なのです。その意味では、人生において仕事をしてきたのではなく、やりたいことを十二分にエンジョイしてきたという事なのです。
 今の極真会館の運営にしても、仕事として捉えたことはないのです。自分にできることであり、やりがいのある事なのです。したがって、空手道から生まれる自分ワールドに浸ることができるのだと思うのです。
 もちろん、過去に知的職業に憧れたことはないかと言うとウソになります。税理士になろうと大学院へ進み、科目免除が目的で勉強もしてみました。税法の科目免除も受けました。さらに、会計の科目免除だけ受ければ税理士というところで止めてしまうのです。理由は、燃えない為なのです。アクセサリーを付けて歩いても何も面白くないという結論を下すのです。
 その為に掛けた費用はいかばかりかと思うのですが、すんなりあきらめるのです。そしてやりたいことを追及する人生へと舵を切ってしまうのです。そのような人生を歩んでいる私は、燃え尽きてしまう事などあり得ないのです。何故ならば、楽しい事しか意識がないし、やらないのです。失敗に対する恐怖などないのです。これは、自分の強みなのですが、逆にいえば弱点という事にもなります。それでも自分を改めようとはしないのです。