2011年5月7日(八段語録1306)

復興への道(23)

 朝のチラシ配布を黙々と実践するのです。今日は道場の近くの幸町の訪問です。町を回って見ると、至る所の家屋が地震で被災しているのです。立ち入り禁止のマンションもあります。一部損壊のようなところは目を見渡せば数か所目視する事ができるのです。やはり地震における被災地であるという実感がします。
 チラシ配布の修行を終えて、今日も文誉の大学へ付き添いです。健康診断と学校内のネットワーク登録をするということでした。長女の順香も一緒に連れて行き、時間の終わるのを待って昼食をファミレスで取りました。文誉は、感受性が強くなっているので、少しでも心に残る表現があると、目に涙を浮かべます。純粋な娘に育っているのだという思いがします。
 それにしても、娘の教育には、厳しい事を要求したのかもしれません。純粋に生活しなさいと言う事を徹底させたのです。男性に対しても、恋愛についても、なるべく関心を持たせない教育でした。それだけに、葛藤もあったのかもしれません。本人の心の葛藤を誘発させ、苦しめたのかもしれないのですが、責任は私にあるのだと思っています。
 実に子供の教育は難しいものだと感じるのです。私の理念や理想が子供達に反映します。私の考えが家庭に反映して、ある意味で、相互協力関係になるのです。その意味では、私のコンセプト、人生観、世界観、価値観において家族に同質を求めます。
 ところが、妻の世界を始め、子供達の世界は、異質なものが多くあるのです。私の世界だけでは、家族には何も生み出さないのです。異質な部分だけ軋轢になり、反発されるのですが、かといって私は歩みを止めようとはしないのです。受け入れてもらった分だけ発展すると信じているからなのです。
 その意味では、少なからず、私の発想が家庭の原動力になるのです。家庭のあり方は、共有する目的の下に、父親の理想に統合するのです。父親が家庭を維持し、垣根になって守り抜いて行く努力こそ、幸福な家庭として継続して行く上で必要な内容なのだと思うのです。それで、父親が愛情を持って意識した家庭は、幸福という幸せが生じるのではないかと思うのです。
 私は、家庭を絶対必要な存在場所として観るのです。家庭ゆえに、生かされ生きることができるのです。また、調和を保とうとする努力で家庭は維持されるのです。家族の構成をなす一人一人は、別人格ですから強制する事はできないのです。とはいえ、決して対立するのではなく対極にある関係であると思うように努力しているのです。
 そして、家族がお互い尊重しあうようになる時に、創造と秩序、自己実現と家族を構成する一人一人の役割が生まれてくるのだと感じるのです。娘の話から発展してしまいましたが、私の生きざまを表現してしまいました。