2011年4月28日(八段語録1297)

復興への道(14)

 寝ぼけ眼で東京駅に到着するのに気が付くのです。今回は福島駅経由という事で6時間10分の旅でした。バスの移動は巨体の私にとっては全身の痺れと痛みを生みます。それでも経費節減を意識して乗り込むのです。朝5時半です。
 さらに、高速バスを降りると、東京八重洲口に一目散に走ります。山手線に乗り込んで、浜松町でモノレールに乗り換え、6時50分羽田広島間の飛行機に無事乗り込みました。広島到着8時というハードスケジュールになりました。一瞬の遅れの許されない綱渡りの時間を刻みながらの到着という事になりました。
 広島空港に到着して、意識は審査会です。多くの子供達に会うのです。心の準備が必要になりました。審査会に出席する人に祈りに似た気持ちが生じます。全国の子供達を空手道で健全に育てていきたいという気持ちの最初の出発としての広島という事になりました。
 宮城師範が迎えに来てくれるまで様々な事を思うのです。広島での審査会にリンクするように、故郷の事が気になるから不思議です。特に大震災の事が頭に思い描くのです。悲惨な状況が走馬灯のように流れます。
 何故神は、天地を支配していながら、神の愛情を持つべきであるにも関わらず、「人々に対する責任と大震災というアンバランスを何と思っているのか?」「支配者たる者、このような大震災を東日本に限定して起こして良いと思うのか?」等。例え神でも普通に、適用される、倫理・道徳はにおいて、一瞬適用されないでという気持ちになるのです。
 私の気持ちの中では、大震災が防ぎきれない猛威としては、捉えきれないのです。つまり、このような武士道を追及してしまうと、天災までも倫理・道徳に合致させようとするのです。それでも神は責任の名の下に、神という地位による責務と再考によって引き起こされた事なのであろうと考えてもしまうのです。
 それでも、この歳になると、神の支配者たる特権を優先せざるを得なかった事を考えてしまうのです。つまり倫理・道徳の免除などあり得ないと結論つけるにも関わらずという事なのです。東日本大震災の多くの被災者はまさに殉教であり、後世に永遠に語り継がれるストーリーになると思うのです。それがどのように倫理・道徳に合致して行くのだろかというと考えてしまうのです。いずれ神の意志を知ることとなるのでしょう。
 私の心の中には、特権など人は持つべきではないという発想なのです。神の下に倫理・道徳が平等でなければならないと思うのです。そうでなければ、このような精神を学ぶ必要も無くなるという極端な発想までしてしまうのです。細かく砕いて考えると、師範になったから、何か他の道場生と違った倫理・道徳が生じてくるとは絶対に思わないのです。 しかし悲しいかな、ある組織では、地位に着くと、特別な利権が発生するかのように、振舞う人達が増えるのです。それを正当化できないのが私なのです。