2011年4月27日(八段語録1296)

復興への道(13)

 午前中の日差しは、結構暖かいのです。子供達とチラシの配布を終えて、農作業へと直行するのです。耕運機を動かして、土壌を耕していると、隣の老夫婦が声をかけてくれるのです。更に、草刈りをしている田圃のおじさんも、農作業の出来栄えを観に来ます。もう私も農民の一人なのです。世間話に話も滑らかです。太陽の日差しは、私の肌着の中に汗を流させるのです。
 10本ほどの「うね」を立てるのですが、溝を深く掘り、有機肥料と家畜の堆肥を入れるのです。鍬を持って左右の土を被せていきます。そうすると一本のこんもりした「うね」が出来上がりです。後は妻の千順さんが夏野菜の種をまいて行くだけになって行くのです。
 更に、農家としての私は、草刈り機を持ちだして、畑の周りの雑草を刈り取るのです。エンジンの高い音が、勢い振動と共に全身に響きます。回転する刃先は根元から雑草を刈り取って行きます。農作業とは、雑草は刈り取り、野菜を収穫するということなのです。そのような作業が農業という事になります。その作業は、農地を見渡せば、仕事に不自由しないほど、多くあるのです。
 夕方までに農作業を終わらせて、本部道場の指導を夕方から始めました。通ってくる子供達の笑顔が、農作業の疲れを癒してくれます。その指導の中で、道場生に訴える事は、倫理すなわち個々の道徳なのです。空手道という道を見つめながら、王子にも乞食にも、まして強者や弱者にも同じように適用されなければならない事を、お互い噛みしめるのです。
 天地に遍く存在する自然はもとより、人間社会であろうが、創造主であるならば、ことさら適用されるべき倫理・道徳の平等性の確認なのです。というのも、私も間違いを犯す事もありますし、誰もが過ちを犯しがちな課題を、お互い戒めることになるのです。道場で教える事は、倫理・道徳・行動レベルは一定であると指導するのです。
 しかるに、道場で指導するこのような事は、基本公理ということになります。一般のどの社会でも、誰もが通用する内容になっていることを理解するようにするのです。人間としての善悪の基準と道場で指導する倫理・道徳・行動レベルが、別扱いされないように意識するのです。
 子供達の指導と、一般の指導が終わってからは、広島に向けて夜行バスで出発です。広島の師範も一年が過ぎて、多くの道場生が集うようになってきているのです。そこで、審査会へ向けて足を延ばすのです。広島の子供達の顔を浮かべながら、バスの中で眠り続けるのでした。