2011年4月10日(八段語録1279)
復興への出発(10)
東京の杉原師範が千葉の会長の道場へ出稽古に出かけていました。会長から、この事で嬉しそうに連絡が入りました。首都圏作戦が着実に進行して行くようです。首都圏作戦として、杉原師範がこれから、あらゆる作戦を立てていこうとしているのです。力強く感じました。まだ何も立ちあがってはいませんが、夢を感じてしまうのです。
私のほうは、日曜日の今日は、農作業に専念する事になりました。ジャガイモを蒔く季節を迎えているのです。耕運機で溝を作り、作った溝に牛舎でできた糞を肥料として入れ、更に鍬で土を盛り上げ、種イモを盛り上がった土の上に植えるのです。
家族全員が総出て作業をしました。私と聖義は力仕事です。そしてみるみると作付けは終了しました。息子の一生懸命さは、茂奈さんからきているようでした。最後に夕暮れの畑に石灰を、二人で真っ白になりながら振り掛けていました。とても印象的でした。
数年前まで、息子はいやいやと、中途半端に農作業を手伝っていたものです。それは、昔の親の仕事を手伝う私と変わりはないのです。しかし、今回は、真面目に取り組んでいるのです。数年後に奇跡を見たようです。私も含めて、真面目さの欠如は、指導者として不適格なのです。そして重大な欠陥なのです。数年前は確かに不真面目な仕事ぶりでした。
私は、それでも不真面目さを指摘した事はないのです。息子の数年前の姿をいつも指摘して、目に付いているようでは、親として失格だと思ったのです。もしそれができなければ、数年経つ真面目な息子の姿を見る事はできないのです。子育てとして、息子の弱点ばかりを記憶している親であるとするならば、家庭の長としての親は失格です。家庭精神を失ってしまいます。親として、存在し続けるには、評論家ではいけないのです。成長を見守り、子供達の短所よりも長所に、目がいかなければならないと思うのです。
今は幼くても、いずれは正しくなるという事に関心を持たなければならないのです。正しい事ばかりを意識し、注意し続けて気にするようでは、子供達は無難な道しか歩もうとしないのです。子供達は、犯した間違いを正すよりは隠そうとし始めるのです。子供達に、私は頭の良さを求めないのです。それよりも真面目に歩み続ける事を望むのです。それ故に、黙って見つめ続ける事を選びました。これからもそのような姿勢には変わりはないのです。
その後、一家団欒別荘で食事をしました。私の母がこの上もなく上機嫌でした。家族の中での幸せを感じながら一日を終えるのでした。