2011年3月18日(八段語録1256)

東北・関東大震災

 片道だけの燃料で子供たちを乗せて、成田空港に午前零時を回る頃には出発しました。それも到着できるかどうか分からない中での決断です。東北新幹線も宇都宮近くまで行けば、何とか空港まで辿りつく事ができるのではないかという判断でした。大津波の災害救助の問題、福島原子力火力発電の損傷の問題、そして、アメリカから茂奈さん一家から来る疎開先の確保と、願い等など様々含めての事なのです。
 夜中、国道四号線を南に走ります。ガソリンがない事もあって、営業のトラックは少ないのです。殆んど一般道路ではあるのですが、車の数は極端に少ないという感じでした。震災から一週間経っていましたので、私の心身の疲れもピークを迎えていましたので、途中息子に運転を変わっての運転です。
 案の定、ガソリンスタンドは営業停止の張り紙がなされて、ほとんど車に供給できない状況です。それでも、宇都宮まで走り続けようと経済速度で運転していきました。朝までに、宇都宮まで運よく到着です。しかし、成田空港まで、子供たちが無事に到着できるかは、判断に苦しむところなのです。
 そのような状況の中、車の長蛇の列を見つけました。一軒だけガソリンスタンドが営業しているのです。それもセルフスタンドで、備蓄が多くありそうなスタンド形態をしていました。何キロ先かが後尾になっているので、そこまで車を走らせて並ぶ事にしました。
 何時間か待ちました。スタンドの店員さんが13時で営業を停止するという張り紙を、ドライバーの車にまで来て、表示していました。ひょっとするここで終わりかと思いましたが、最後の最後で奇跡的にも燃料を確保できたのです。それだけに、成田まで子供たちを送ろうとする意識になって、更に道を進むのです。
昼間の道路は、かなり混雑し始めていました。それは、一車線を燃料待ちの車が占拠するのです。二車線あれば良いのですが、埼玉から千葉に抜ける一車線の道路を走るのでなおさらです。混雑する道をゆっくり走りながらの旅路となりました。
車を走らせる中、四人の子供たちとは、もしかしたら最後の別れになるかもしれないと、心をよぎるのです。自然に涙が流れます。最悪の事態にならない為にも、再び地元に戻って復旧に全力を注がなければならならないのが、私の立場なのです。揺れ動く心の中で、成田空港近くまで到着したのです。
 この町のコンビニで食事の買い物をすると、仙台ナンバーの車に、周りの人が寄ってきて、震災はどうなっているのかを聞いてくるのです。応援しているという言葉を温かく掛けてくれるのです。深く感謝しながら前進する事にしました。