2011年3月13日(八段語録1251)

東北・関東大震災

 震災から三日目、余震がやまない状況の中、ライフラインが途絶えています。母親は、長町南小学校の避難所で過ごして、多くの人の親切でもって守られました。最後は、長町南小学校の教師の案内でタクシーを拾って帰宅しました。母親が帰宅した時には、家族で大喜びです。結局二日間に母親を探した事になりました。家族の絆が如何に大事であるかを実感させられながら、震災の中でも、ひと時の幸福感を感じたのでした。
 家族が揃って、家の中の後片付けや、我家に関して、やるべき事が多くあったのですが、この震災に対して宮城野区消防局に詰めて、消防団の動きの指揮、監督をするという部門に立ちながら推し進めていくという役割を推し進めて行こうと決意を固めました。この震災に真っ向から立ち向かって、消防団組織をフルに活動させていこうという事に最大の力を注ぐという判断です。
 午前中、本部分団は、10名全員が忙しく指揮監督に携わりました。日曜日という事もあって、宮城野区七個分団は、朝から日没まで、必死に力を注ぐという活躍です。活躍しなければならない状況が、震災三日目には、災害の全容が露わになってきました。青森から太平洋沿岸地域数百キロメートルに及ぶ地震と津波は三万人弱の行方不明者を出しているのです。
 更に追い打ちをかけて、福島原子力発電所の原子炉の危険な状況が流れました。放射能漏れが確認され、住民避難を二十キロとすると発表され、避難が迅速に進められたのです。原子炉の水素爆発を含む、トラブルが何度となく報道され始めました。
 震災の状況が、明らかになるなかで、消防局の職員の活動が、現場の生存者の探索がはじまり、消防団もそれに伴う動きが活発になりました。瓦礫の下に、人々がいないかを徹底して捜索です。そんな中、地震当時、宮城野区の海岸側、湊分団消防積載車で広報活動を行っていた二人が津波に呑まれて、死亡したとの連絡が入りました。さらに、二人の消防団員が行方不明という内容が入ってきたのです。被災者はもとより救援に赴いた人達の二次災害が起きてしまったのです。
 それでも、現場は忙しく、救援活動に向かうのです。冥福を祈りながらも、今瓦礫の下に生きているかもしれない、多くの被災者の救済に努力を傾けて、指揮し続ける本部であるという事になるのです。
 明日からの、救援活動のスケジュールを原町分団に届ける為に、原町分署へ車で向かったのです。途中、地元の渡辺選挙事務所で、停電の為に携帯電話の充電ができていなかった人達に電源を解放していて、数十名の市民が集まっていました。原町分団はすでに、解散していたのですが、団員にスケジュールを伝え、原町小学校の避難所の見回りをしてきたのです。
 再び、宮城野区消防局に戻り、状況を判断しながら、家路に就くというハードスケジュールになったのでした。明日からは、疲れもピークに到達していことから、二交代制で臨むという事に決定し、私の場合朝6時からの現場の指揮という事になりました。