2011年3月1日(八段語録1239)

これからの極真会館の運営 道場生から見た極真会館の価値

 疲労度の限界を超えての闘いがありました。心がマイナス思考をするのです。気持ちに張りがなく、まるで老人のごとくの姿に自分を疑うのです。健康な体であるかどうかが問題ではないのです。自分の考えが良くないのです。
 早速、朝の修行を終えてから、温泉に直行しました。身体が温まるにつれ、いつもの自分を取り戻すのです。そのような最悪の時間を通過しながら、本来の自分を探し求め、しっかり根付かせようとしたのが、月初めの今日なのです。
 ところで、今回の心霊低下に対して、空手道の精神は、役立たせようとしているのです。自分の目的と使命に取り組む上で、答えようとする究極の問いかけは、おまえは何のために空手道に邁進しているのかということでした。私にとっての日々の価値は何であるかの究極の問いかけなのです。それと同時に、道場生にとっての空手道の価値を考えるのです。
 今日は、それが最も重要な自分に対する問いかけだったのです。それは、毎日の中で最も少ない自分に対する問いかけなのです。心が燃えていない時に問いかけると、結構つらいものがあるのです。何故ならば、答えが分かっているからだと思い込んでいるからなのです。
 その最初に用意している答えは、空手道が子供達にとって、最高の教育であるという思いなのです。だが、その答えを検証しなければならないと思うのです。意外と間違っているといことに気づくのです。
 というのも、道場生は、教育される為に道場に来ているのではないのです。道場にきている理由は、究極的には、道場生の欲求の充足なのです。それが道場生の気持ちなのです。それを一概に私が教育の為であると思うところに無理があるのです。
 小学生や、中学生にとっては、空手道を続けて行こうとする動機が、様々なのです。強くなりたいと思う子供たちもいるだろうし、健康で丈夫になりたいと思う子供たちもいるのです。つまり、子供たちの思いとマッチしていなければならないのです。その道場生、一人一人に、教育という言葉で片付けている私の心は情けなく感じるのです。教育という事など全く意味がない事にもなりかねないのです。
 ところが、ご両親は、わが子の課題をよく知っているので、わが子を育て上げたいという教育内容を私達に要求しているのです。教育という内容は、両親にマッチしても、子供達には、欲求の充足とそれに伴う延長上の話になるのです。道場で稽古をするという事が、子供たち一人一人しか答えられない、複雑な問題であるという事も理解しなければならないのです。
 その意味では、私が推察してはいけないのです。道場生と一緒に汗を流しながら、考え、そして聞かなければならないのです。何かを求めていく時に、考えさせられる事が多いのです。月初めであるだけに、気を引き締めて、道場運営に取り組もうとするのです。