2011年2月15日(八段語録1225)

これからの極真会館の運営 社会による救済より一人の人間との信頼関係が大切

 私達の面倒を見てくれるのは、国や行政ではなく、隣の人という結論を出しているのです。企業や職場でも人事部ではなく、目の前の同僚なのです。今まで、私達のナツメロ的な学生運動は、社会による救済という事を掲げてきました。その為に、よりよい社会を作るために、今の体制の改革を目指そうとしたのでした。
 しかし、体制を変えるという事を目指すということでは、救済ができないという事に感じてしまったのです。それに代わる方法を今となっては見出そうとしているのです。それが表れる事を望みとしてきました。禁欲主義を貫いた事もありました。今の私を満足させる宗教である事を望んだ事もあります。教えは立派でも、団体となると様々な課題を抱えているようで信仰の「対象」するには、大人になる以外にないようです。
 いずれにせよ、救済、成長、善、という事を考えただけでも、社会的な目標や政治的な方法としてでは、解決しないのではないかという事が私の結論です。人間の実在に関わる内容が求められていることは間違いないと思うのです。少なくとも、社会や団体による救済は不完全に終わると思われるのです。
 それでは、どういうことに帰結するのかを考えてしまうのです。そうすると、人間の内面への回帰の中で考えようとするのです。社会よりも、隣人という結論が、私としては感じている事なのです。個人としての人間が、隣人との信頼関係で、構築するなかで存在意義を感じようとするのです。
 極真会館宮城県本部を設立して、10年の歳月が流れています。私と道場生との間にある信頼関係が、今の私には誇りなのです。信じあえる関係を、極真会館という切り口で開拓してきたという事なのです。私個人としての人間が中心となる組織の開拓なのです。一人ひとりの責任を果たす中で深い絆が構築されているのです。
 私の闘いは、信頼できない、利用しようとする人を、多数の人を巻き込んで行こうとする歩み方とはまるっきり違っているのです。あくまでも人間への信頼への回帰が根底にあるのです。本物の信頼関係を築いて行こうとするのが、極真会館の土台であるべきだと主張するのも私なのです。何度も言うようですが、極真空手は手段であって、その中で築かれる信頼関係や愛情関係だけが最終的な財産になると思うのです。