2011年2月14日(八段語録1224)

これからの極真会館の運営 実務能力

 私の場合、極真会館の初期から歩んできたという自負心を持っているのです。博物館に飾られるぐらいの武勇伝の数々、稽古、全日本での試合、そのほか、大山総裁との思い出がたくさんあるのです。恵まれて、四年間総本部に在籍していました。毎日のように総裁からお言葉を頂いていたのです。もう既に四十年近くの歳月も経ちました。
 それが、私の今の誇りであり、カリスマに近いものということになります。何故なら、総裁そのものが、カリスマの実態だったのです。極真会館の発展に大山総裁の、カリスマ性なくして語る事がでないのです。私の場合、求めるものが、その人物にあったのです。
 私にとって、大山総裁のカリスマ性は、重要な事だったのです。当然入門時のインパクトはありました。しかも、それ以上の内容だったのです。自分にとって神格化して尊敬したのでした。結果的に、私そのものを正しい方向に導いてくれたという実績なのです。他の人にとっては、私と違って正しく導かれなかったと言う人もいるのです。その人にとっては間違った方向に導いてくれた害毒溢れる大山総裁だったということになるのです。
 ところで、今の宮城県本部でカリスマ性のある人物はというならば、取りあえず、私ということになるのです。その根底に、大山総裁のようになろうとする意識が激しいものがあったのです。しかし、私のカリスマ性の有無に関係なく、今の道場で優秀な人が多くいるのです。道場の発展の要因の多くは、実務能力を備えたそれらの優秀な人達なのです。そのような意味では、道場を支えている人達が、抜きんでて有能であるとか、その人の為なら死んでも良いと思わせぶりをするようなカリスマ溢れる人物ではないのです。
 今日の道場の発展を考えると、おそらく私のような楽観的な指導者にとって、菅野師範を中心とした新たな執行部によって、昔ながらの極真会館のカリスマ性だけの発展にピリオドを打って、実務能力を駆使しての意味ある希望の光をもたらしているのです。世代の流れに従って、必要に迫られてくる人物像が違ってくるのです。今は、まさに、意味ある実務能力を備えた人達が、ステージの上に立って行く時なのです。