2011年2月13日(八段語録1223)

これからの極真会館の運営 成果や実績のない自由はない

 自由とは、楽しい事ばかりではないのです。成果が表れなければ楽しい事ではないのです。幸福そのものでもなければ、安心を約束するものでもないのです。まして平和をもたらし、何事も進歩が約束されている事でもないのです。ただ単に選択ができるという事であって、その選択によって成果や実績が表れなければ自由とは苦痛にすぎないのです。
 自由である事を要求して、高校時代に学生運動の真似ごとを始めた事があるのです。当然時代の流れもあって勝ち取って、制服の自由化を果たした経験を持ちました。その事ゆえに、自由な服装が権利であるかの如く考えもしました。そして数か月経ちました。その結果、服装を選択するのに大変で、何を着てくかを迷い、私服代が増えるのです。私の場合、貧乏ゆえに、番柄スタイルのままで、何も自分の服装の改善にならなかったのです。
 私にとって、この時の自由は、別にスタイルにこだわる事もなかったので、何の成果が感じられなかったのでした。周りの同級生も別段これといって変化はなく、受験勉強に費やす時間を惜しむように学校に通っていました。クラスの雰囲気が高校から受験予備校に変わっただけのようでした。
 自由に関して思う事は、学生時代の経験上、楽しいどころか重荷になったぐらいなのです。それは、自らの行動と学校の同級生の行動のただ単に選択に関わる内容であったのです。制服がどうのこうのという選択は、同級生に取って、結果的にどうでもよい事で、望む受験校へ合格するように努力する事が本質であったのです。
 さらに、自由であるという事は、ある信条を持って行動する事ができるというメリットがあります。しかし、生活するにしたがって、このような信条なるものは、特権でも、権利でもないと感じるのです。日々の活動の積み重ねですから、どちらかというと重荷となって義務に近く感じてしまうのです。そして、生活に満足感がなければ、苦痛そのものなのです。
 私の場合、ご存知のように、壮大なブログ更新という旅に出たのです。千日修行を達成して、万日修行へと向かっているのです。自分で選択した自由ということなのです。万日ブログを書き続けるという事は、途方もない旅なのです。それを行う事も行わない事も自由なのです。このブログ更新から解放するのも自由です。
 それでも、目標を完遂して、自分が納得するならば、喜ばしい刺激として自分に返ってきます。その時が90歳であろうが、構わないのです。一段一段地道に歩む事が充実した生活につながって、人生の本質に向き合う事ができるのです。それは、まさに自己実現にもつながっているのです。今日はというならば、自己実現の第一歩であり千日修行を越えて行っている途上ということになります。