2011年2月10日(八段語録1220)

これからの極真会館の運営 空手教育の持つ意義

 無駄な時間を浪費したくないと思うのは、年齢が高くなった為でしょうか。興味を引く内容を中心に動きたいのです。なるべく、地域の人達の為の役員会に出席を心掛けながら、私がすべきことを検討するようにするのです。
 地域の伝統と潤滑油的関係なのだと思うのですが、二月後半まで新年会は続くのです。それでも、様々な情報を入手して、どのような活動をすべきかを頭の中で去来させるのです。ましてや武道教育に携っているものとしての知識の探求と教育を深めていくのもこの時期なのです。
 さて、実践空手を主張している私達にとって、知識と教育は、道場生に対して切り離して考える事ができないのです。もちろん、空手における知識としての研究対象という意義は当然あるのです。基本であったり、型や組み手であったり、いわば知識の理論と思われるものに従って組織していかなければならないと考えるのです。指導方法に対しても、研究を重ねながら、様々取り組むのです。
 40年近く空手道を追及すると、あらゆる知識が、脳の中に整理されているようです。特に全国を巡回するように、あらゆる道場に顔を出して修練してきた私にとっては、整理棚がたくさんあるのです。求道者時代の私にとっては、空手そのものを追及するという事で、教育という用途を中心にではなく、空手道の本質そのものだったのです。
 ようやく指導者になって、今までの知識と探求が、空手そのものの専門分野ではなく、教育の為の利用分野として、実践し組織しようとしているのです。つまり道場生を活かすための教育に役立てようとするのです。つまり空手道という知識を自らの最終目的とするのではなく、何らかの成果をもたらすための手段に移行しようとしているのです。
 そのような意味では、道場生を教育する原動力としての空手道は、道場で武道教育に生かされて初めて意味を持つという自覚が芽生えているのです。空手を専門分野として定義しようとは思わないのです。より道場生を教育する材料として、最大最高の成果を上げる武器として活用せざるを得ないのです。
 それにしても、一日の過ぎていく時間の早い事に、呆れてしまいます。無駄な時間を過ごさないようにしようと心に留めながら、研究に勤しむ私の姿がありました。