2011年2月7日(八段語録1217)

これからの極真会館の運営 教育があることの意味

 私の息子聖義・茂奈夫婦が二泊三日の旅から帰ってきました。責任感溢れる顔つきになっていました。誰にも干渉されずに二人だけの時を刻んできたのです。二人の未来は、限りなく夢と希望に満ちているのであろうと推測するのです。
 私が夫婦として家庭を出発した時は、すでに三十四歳を過ぎていましたから、私からすると早すぎて心配してしまいます。それでも、私の時とまるっきり同じ雰囲気を漂わせているのです。
 私は、年齢が若いからということではなく、彼らの将来は、しっかりと教育を受けているかどうかにかかっていると思うのです。かつて私は高校時代にヘルマンヘッセの小説を何冊か読んだ事があるのです。一つに「車輪の下」でした。小さいころから優等生として扱われ、社会にちやほやされながら、最後は落ちぶれていくというストーリだったように思うのです。
 小説の主人公は、最後には俗世間の金まみれの汚い世界へと落ちぶれていくという内容に唖然とした思いがあるのです。いくら高い教育を受けようが、秀才と言われようが、現実の世界に正しく関わらなければ、彼が価値ありとするも、紛い物に過ぎなくなってしまうという事なのです。この件に関しては、今でも私の闘う教育内容です。
 この現実世界は、あらゆる誘惑に満ち溢れています。芸能人が陥る覚せい剤もその一つでしょう。このような世界であるからこそ、武道教育が必要であると感じるし、これまでの如何なる社会よりも教育あるものを必要としているのです。教育ある者とは、何よりも偉大な先賢達の伝統を相続できるものでなければならないのです。
 話は息子夫婦に戻りますが、彼らは若くとも知恵ある者として世間を渡って欲しいのです。今回のテーマの「教育があることの意味」を体現する事を私は望むのです。先輩夫婦として示せる事の全てを表現するのも私の責任であると思うのです。彼らが本当に教育を受けたかどうかは、これからの歩みにかかっているのです。親として子供を愛情を持って育てた時は過ぎ去り、先輩家庭として後輩家庭の見本となる時代への突入であると今更ながら感じるのです。私が本当に教育を受けてきたかの実践がこれから現実世界と始まる思いでおります。