2011年2月5日(八段語録1215)

これからの極真会館の運営 組織の論理と個人のパーソナリティの価値観が衝突する時考える事

 聖義が学校の研修で遅れるので、夕方四時からの教室を私が受け持つことになりました。何度か指導を重ねてきたので、スムーズに子供たちと交流を持つ事ができました。道場の指導は、自分ひとりで出来るのではなく、スタッフとのコミュニケーションで運営されて来るという事を強く感じるのです。
 道場の指導はコミュニティにおいて活動ができるとつくづく思わせられるのです。当然成果はコミュニティにおいて現れることになります。しかし、コミュニティに埋没することなく、コミュニティに従属する事も許してはならないのです。その場合、コミュニティを超越しなければならない時がくるのです。
 何の話をしているのかというと、役割を自分が持つとします。もし不得意であれば、他に譲りサポートに回るだけの力量があってよいという話です。私は、この極真会館の教育問題に関しては、定年制はないと断言しております。年齢に応じて、働ける限り役割はあると感じているのです。
 例えば、指導が余り上手でないとするならば、当然努力して指導力向上に力を注ぐのですが、それでも難しい場合には、必ず役割を別に探す努力も必要になって来るのです。必ず道場にとって不必要な人は誰ひとりとしていないのです。役割を見つける事ができない場合、コミュニティを動揺させることになるのです。そして不当な扱いであると騒ぐのです。
 私の場合、誰も出来ない分野を探します。それが、3Kのようなものであろうと、必要であれば、さらに、その内容が私に出来るとするならば、前面に押し出して率先していくのです。それがコミュニティを不安定にするかというならば、そうではないのです。私が、毎日縁の下の力持ちでもしていたとするならば、各役割にスタッフは私に負けないように努力するだろうと思うのです。
 道場の論理は、コミュニティだけによってではなく、その果たしている役割や機能によって決定するのです。それだから、ボランティアの精神が道場生には培われることになるし、それを奨励すべきなのです。道場のレベルの高さは、その役割を演じるスタッフによって決定するのです。
 私達の道場は、自らが行っている役割が不可欠の貢献である事を信じなければならないのです。その事を踏まえて、組織の論理がコミュニティの価値と衝突しようとする時、誰が好き嫌いでなく、道場を守るという観点で、道場の責任ある人間を大切にして、サポートするように心掛け努力する勇気が何倍も必要になって来るのです。