2011年2月4日(八段語録1214)

これからの極真会館の運営 在り方論としての傍観者

 今までの人生のあり方を検証すると、役者か観客かという設定が多いのです。今何をしているかということに対して、主体的に主役で捉えたり、観客として熱心に存在したりするのです。しかし、結構年齢がいくと、今何がなされていて、これからどういう風になっていくかを、敢えて傍観者になって見る事も必要であると感じるのです。
 傍観者とは、ある意味で無責任な立場なのです。舞台に上がる事もなく、演じるわけでもないし、ましてや観客でもないのです。少なくとも観客は芝居の運命を左右します。しかし、傍観者は何も変えないのです。
 極真会館宮城県本部の評価を、あらゆる人に聞く事があるのです。昔ならば、すぐに反論したり、弁明したり忙しかったのです。その時に最近の態度の一つに傍観者をとりいれているのです。役者や観客とは違う事を感じるのです。つまり違う見方で見るのです。敢えて観察もするのです。そして釈明しているのです。
 得てして、傍観者は自分の目で見、自分の頭で考えます。聞いた事をすぐさまスタッフに話して、まさしく屋根の受けから叫んで人を驚かせるように感心できない様子でスタッフに報告はしないのです。
 極真会館宮城県本部のトップであるという事は、色々な報告を受けるものです。それを一々反応をしていないのです。また「これは何だ」とスタッフに問いただす事もないのです。このような寛容さが、自分にはあったのかと不思議なくらいなのです。最終的には、もちろん傍観者であろうはずはないのです。最後は、最終的に全ての責任を取るのです。しかし、傍観者の姿勢は、何がなされるべきかを知るために、敢えて今の私には必要であると結論づけています。
 そして、行動しているのです。ただ、スタッフを驚かせするよう言動はしないのです。できるだけ、スタッフが自己完結できるように責任体制をしっかりして貰うのです。何かを表現し続けているのですから、大変な責任心情が貫かれていることだけは、自他ともに認めることであると思うのですが、今日は敢えて傍観者を買って出ました。