2011年2月2日(八段語録1212)

これからの極真会館の運営 不安要因はあってしかるべき事

 一昨日朝、家の近くの坂下交差点で、突然車がスリップしてきて、私の運転していた極真会館の車に激突したのです。昨日は、新雪が数センチ積もっていましたから、初心者の運転手が右折しかねて、勢いぶつかってきたのでした。幸いにも車から降りたときでしたので、人身事故とはならず、車だけの破損ということになりました。
 人生何があるか分かりません。運転手は、気が動転していて、警察と保険屋に電話をしているのですが、一向に私を振り向こうともしません。警察への手続き、保険関係の手続きと忙しそうです。私も何も言わずに車を修理工場へ走らせました。結局、相手の私に対する謝罪はなく、保険が全て解決する対応に、私も気分は良くないのです。
 相手は19歳の女の子、深夜までラウンド1遊びまくり、疲れた身体で、友達三人を乗せての運転です。ちょっと遅れて車から降りていたら、どのようになっていたかという事を考える胸を撫で下ろします。それにしても、運転手の女性に私が言いたいのは、最初に「車に衝突してすみませんでした」という「一言」あろうと思うのです。それを忘れて事故対応だけに走るようでは、人間としてどうしようもありません。
 特に、道場生に人を大切にする事を指導している私としては、運転手に、「どうなんだ」と話そうかと思いましたが、何も話さずに過ぎ去りました。私の教育的指導が必要であったのか、それとも今回の私の態度のようにただ何もせずに過ぎ去っていくのか考えています。 
 私の気持ちの中に、19歳で、わが娘を見てしまったという事もありました。穏やかに過ごして、何もなかったようにしようという気持ちもあったのでしょう。それでも、「すみまんせんでした」の一言があったならば、苛立たずに済んだのだと思うと、ちょっと悔いが残ります。
 今日のテーマに入ります。今日も家族の安定の為に一日歩んできました。気持ちは安定を求め、変化を阻止し、あるいは変化を少なくしようとしているのです。そして、今、57歳という年齢を迎え、硬直化し、陳腐化し、いずれ後悔に変化するのではないかと思うのです。
 それでも、青春時代のように無茶は出来ないのです。まさに、年齢を重ねるごとに成熟し、自己の内に腐敗が起こりかねないのが現実です。まさに、自己革新の失敗をもたらせるように思うのです。
 極真会館宮城県本部の継続性の為に、体系的かつ組織的なメカニズムを構築してきたのですが、生命があるのかと考えますし、目的を達成しなくても惰性でも生き残ることはできるのです。かくして、今の極真会館の運営にあたり、起業家精神が必要であると感じるのです。常に、変革をもたらす作業をしていかなければ、ならないと感じるのです。ある意味での不安定要因を持つべきだと結論つける今日です。