2011年1月1日(八段語録1180)

新年にあたって

 今日、元旦を迎えるのです。新年を更なる飛躍にするべき、大晦日から神社にお参りです。除夜の鐘を聞きながら、寒空の中、妻と息子を引き連れて車を走らせます。人出が多い神社を避けて、近くでお参りです。それでも駐車場が無いので、近くの郵便局に止めて、新年を迎えることになりました。
 一番に新年に心掛けようとすることは、昨年と全く違った自分に変身しようとする意気込みです。去年の続きの人生であるかのようには、振舞わないという事を心に決めるのです。去年までの概念で物事を見ないようにするのです。全く違った世界が訪れる年であると思うようにするのです。
 というのも、これからの社会情勢において、全く、今までの概念と違った現象が起こることが予測されるのです。環境が余りにも変化に富んでいる昨今です。ちなみに、昨年は猛暑でした。さらに、今まで起こりうることを予測する事ができないほど、目まぐるしく変化に満ちることを想定するのです。
 神社にお参りする妻の姿を眺めるにつけ、昨年度一生懸命に生きてきたという輝きが、表情の中ににじみ出ているのです。確かに今では、あらゆる面で、我が家の主導権を握って推し進めているのです。私にも叶わない一面を呈しているのです。何を妻の姿に映し出すかというならば、家族愛に満ちた表情と真摯な姿そのものなのです。今の妻と出会えたことに今更ながら感謝です。
 息子の横顔はというならば、恋人を持ったという誇りなのか、自分の世界が主張され、男という概念が当てはまるような姿なのです。新しく伴侶を持とうとする男性は何処となく逞しく感じるのは、このような事を思うのも、親バカの領域に入っている事なのでしょう。
 また一歩、新年という新しい環境を有効に活用しながら、自分の心磨きが始まるのです。肉体の完成を目指した若き日、技の研究に余念が無かった中年時代、そして、この歳になって必要以上に心なのです。心を如何に美しく輝く姿にして行くかが人生の結論ということになるのです。徐々に悟りに歳を迎えているという事なのでしょうか。
メッキのように、表面だけ磨いて、メッキだけの上塗りで、金銭を略奪しようとする人もいれば、権力を得て、人を自由に管理しようとする人もいて、人様々です。私の場合、ひたすら自分の心を鏡のように磨くのです。それは何のためなのかという、目的がはっきりしているのです。純粋に多くの人に愛情を注ぐという一点しかないのです。今までその内容を少なからず実践してきました。これからも、この点は譲れないのです。それが空手道を極める理由であり、聖職の礎にならんとする生き様なのです。荒れ模様であるという天候も仙台は恵まれた天気になりそうです。