2010年12月26日(八段語録1174)

2010年の総決算(12)

 これほど社会の景気の低迷が続くとするならば、就職難を始め、あらゆる人達の生活が困窮してくるのが目に見えているのです。生活の為にライフスタイルを変えて、我慢してしまうのです。つまり、自由と生活の安定が両立しなければ、多くの人は、自由よりも生活安定を望んでしまう時代に突入しているのです。
 多くの人達は、生活の安定をもたらす事を約束してくれるものがありさえすれば、自由に生きるという事を放棄しても良いと覚悟しているのです。今の学生の就職活動を検証しても、本来やりたい分野の仕事に就きたいにもかかわらず、第二、第三の希望の職種に埋没しているのです。
 自由が安定をもたらさないとするならば、自由を捨てるであろうし、自由が安全をもたらさないとするならば、安全を選ぶように思えるのです。自由によって、何もできないとするならば、自由があるかないかは二義的な問題に過ぎないのかもしれないのです。
 時として、多くの社会人は、不条理な職場に対しても、我慢と忍耐の中で過ごす事が多いのです。どんなに環境が劣悪でも、人間関係が極度に悪化している状況でも、ただ追認しているのです。その為に、精神病という心の病気へと追い込まれているのも事実なのです。
 夢を持って教師の道を選んだ人達の中には、教壇に立つ事もなく、自宅療養の最中の教師がいかばかりか多いかという事が明らかになっているのです。サラリーマンが、上司に対してイエスマンとしての存在でしか無くなる理由もこのような事に起因しているのです。
 私の場合、現場の指導者に対しては、私の顔色を伺うことなく、自分の責任によって運営して行くように指導しているのです。もちろん、成果は問われると思うのですが、自由を奪い、組織全体を全体主義的な発想にならないように極力心を払っているのです。
 ある意味で、間接主管ということになるのです。結果主管です。全体主義にはならないようにしているのです。更に、指導者の自由を奪うことなく、自主性を重んじて、責任を果たす事を願うのです。口出しするとするならば、毎日のように顔を合せて、いちいち指導するのですが、全体主義の再現を極力しないようにしているという事も、心に留めておいているのです。