2010年12月24日(八段語録1172)

2010年の総決算(10)

 武道精神の必要性が益々重要になってきていると感じるのです。とうのも、社会全体の合理性を追求するが故に、個人と社会の関係がぎくしゃくしている現状をみるのです。現代社会を、特徴として表現するならば、個人と社会の関わりを持って生きる事の喪失になっているのです。
 本来ならば、社会は、一人の人間が、一生懸命生きることを望むようであるとしたならば、絶望せずに生活できるようにしてあげなければならないのです。その方法は、一つしかないのです。一人一人の人生を隣人が大切に扱っていくということでしかないのです。そうでなければ、いくら自分を主張する人がいても、全ての人生が無意味かして行くのです。
 個々人が、人類という樹木の一枚の葉、あるいは社会という実体の一つの細胞に過ぎないという考え方を持って人生を歩むとするならば、人は死んでなくなるとう事になるのです。集合体の一員であり、時代の一通過点に過ぎなくなるのです。
 この事を主張するならば、その時、人生もまた人生ではなくなるのです。それは、社会全体の中の一つの機能的過程にすぎず、全体との関連だけの、いかなる意味ももたなく存在するという事になるのです。このように考えると、人生を社会の歯車としての捉え方は、ある意味で直接絶望へと至るのです。その絶望はファシズム全体の歯車としてだけ通じるしかないのです。
 しかしながら、人生を、絶望における実体、悲劇としての実態である必然性は全くないのです。武道精神における、自らの人生の開拓が可能なのです。武道精神とは、不可能を可能にしていく開拓精神、あるいは、時間と永遠が一体化して行くような、生死の意味を持つ生き方になると確信するのです。個人の人生が、社会全体に対して働きかけ、二つの関係が、緊張状態を生み出し、お互いが必要とする絆が生まれるのです。
 それ故、武士道において不可能が可能になる可能性が秘められているのであり、社会に対して積極的に働きかける個人の人生を見出す事ができるのです。