2010年12月11日(八段語録1159)

日本を出発して思うことの一つ(5)

 世界への出発が頻繁になってきているこの頃です。今年は三回目になるのです。それも長期の滞在で、空手指導をする訳ですから、日本の伝統が世界で恥じないように、慎重に行動すべきであると心を戒めながらの旅なのです。
 今日は、節約の名人、母親がテーマになりそうです。もう既に八十二歳になるのです。子供の頃は、実に母から厳しく躾けられました。母の姿は、現実よりも夢を追って未来に備える人なのです。親父は、注文住宅専門の太平住宅に勤めていました。それなりに、社会に貢献している企業でした。それが、今回の節約話の発端になりました。
 私は日本中を旅したのですが、どの都市にも太平住宅の社屋ビルが無かった所はない大きな会社でした。息子としても旅をする中でも誇らしげに思ったものです。その大手の会社に勤めていた親父ですから、それなりの給料は頂いていたのですが、母は、親父の給料を生活には反映させないのです。給料の全額を銀行や郵便局に貯蓄するのです。
 生活に反映させるお金は、近くのマルハ大洋の工場でアルバイトして捻りだすのです。私も小学校の5年生になると、母を手伝って新聞配達のバイトをして、全額家計に回しているようでした。さらに、貯蓄したお金で作りのしっかりした家を頑丈に建てるのですが、家一軒丸ごと使わないのです。三分の二はアパートのように人に貸すのです。
 親父の給料が蓄積されて、大きな金額になると、さらに、現金で家を建てるのです。決してローンは組まないのです。そうして建てた家の数は、七件にもなるのです。その家の内容も自宅で使うのではなく、下宿業を始めたり、会社に家を貸したりして、必ず収益に結び付けるのです。
 それでいて、私はどこかの坊ちゃんになっているかというと、衣服は最低限度であり、何度も母がミシンで継接ぎを宛がって着続けているのです。まさしく、質素倹約を旨として生活をしました。しかし、両親は息子に対する期待は大きいのです。学校教育も、中学だけで卒業すれば十分という考え方でした。それでいて、高等学校に入学を望むならば、公立学校しか入学させないとう徹底ぶりでした。それでも、愛情だけは、十二分にかけて貰ったのでした。
 母親は、外食は絶対にしないで、全てを手作りで料理をするのです。具たくさん料理がいつも目の前に飾りました。その食事も材料は、魚屋さんでは、切り身の荒を安く購入するし、コンニャク屋さんでは、屑コンニャクをたくさん仕入れるのです。野菜は、梅田川の堤防沿いに、畑は県の土木課から許可を貰って耕し、新鮮な野菜が食卓に並べてありました。
 母は、今の私に対して、厳しくもあり、優しくもあり、最大の理解者ということになります。そして、私の青春時代は、小遣いを一万五千円以上は使わないという徹底した信念で暮らしました。それも、母の影響が大きいのです。母親は、未来の為に、今を我慢するという姿勢の天才でした。私も、母の爪を煎じて飲むぐらいの気持ちで生活しなければと感じさせられる今日この頃です。