2010年12月9日(八段語録1157)

日本を出発して思う事のひとつ(4)

 また原点に戻るようですが、気がかりになるのは、やはり家族のようです。今日は、文誉の事になってしまいます。末っ子の娘には、今年は、愛情の神経の使い通しという年でした。尚絅女学院高等学校を無事に三月卒業して、晴れて4月の入学式に臨んだのです。入学式その時間、手足が震えて、精神的に落ち着かない状態になったのです。
 その時点では、余り気付かなかったのですが、大学のオリエンテーションの時になるとその度合いが激しくなり、大学に通う状態では無くなってしまったのでした。私達夫婦には、手がつけられず、道場生でもある、精神科の永嶋先生に相談したのでした。すぐさま入院を勧められ治療に入ったのです。
 病院での入院治療は、本人の状態によって、様々な薬が投薬されていました。病状によって薬は変わりました。4ヶ月過ぎてから、現状の病状に対応するような薬が選択され、それが、てき面に効果を表し、短い期間で退院の許可も出たのでした。それから病院への通院が一週間に一度の割合になったのです。
 ところで、この精神的な病気の兆候は、結構早くから始まっていたのです。高校三年生も12月の定期試験が終わると、学業は、終わっていましたし、文誉の場合、尚絅学院大学への推薦入学が12月9日には決定していました。その後の期間を、本人はアルバイトがしたいという事で、コンビニのバイトをするのです。その時に、現れていたのでした。レジ打ちで、お金の計算を間違えるのです。何度も店長に迷惑をかけていました。私もそんな計算間違いをよくする娘ではないと思っていましたから、不思議に思っていたのです。
 実は、その時から、脳が働かなくなっていたのです。要するに脳が働きにくい状態になったのです。そのせいか、物忘れも激しくなり、顕著に表れていたのが、自分の部屋の掃除ができなくなっていたのでした。千順さん、性格から来ていると思い気にも留めなかったのですが、そうではなく、確実に脳が働かなくなっていく前兆だったのです。
 何故そのような状態になって行ったかを、私なりに振り返って見ると、尚絅高校の三年間は、トップレベルの成績を維持していたのです。そんなに機転の効く子供では無いのです。その勉強の仕方は、尋常ならざる努力の積み重ねだったのでしょう。三年の最後ぐらいには、疲労度がピークに来ていたのです。私の概念では、そのような事は、勉強をしてあり得ないという概念でしたので、何も気にも留めていなかったのです。
 それも、尚絅高校では、学級委員を務めていましたの、クラスのメンバーから頼りにされていました。面倒見は、自分の限界を超えるほど、尽くしていたし、本人はバンドも結成していたので、バンド活動も盛んに行っていたのです。十二分に活躍していたのでしたが、それは表面で、ストレスが相当溜まっていたのでした。そのストレスのはけ口を、インターネットに求めたり、チャットで会話していたりして解消していたのでした。
 そのような娘の事は、理解の範疇に、なかった親であった事を本当に悔しくもあり、申し訳なくもあるのです。しかし、この状態に対応する心構えと決意はかなり固めたのです。
 自宅療養も三カ月を過ぎると、もう脳の回復は顕著によくなり、身体を余すぐらいになったのです。私達も安心し始めてきていたところでした。そのような中、文誉からアルバイトがしたいという提案があり、私もすんなりOKを出したのです。
応募した所は、20倍の倍率で採用枠が25名という事だと聞かされました。イタリアンの軽食のトマトという店の立ち上げという事で、殺到していたのだそうです。採用されて、研修を受けながら、もう既に一ヶ月の間、逞しく頑張り始めたのです。
 来年には、大学へも普通に通うという事を話しているし、その時には、聖義の恋人の茂奈ちゃんと一緒に通えたらという希望を話しているのです。それにしても、子育てには、様々な事が待ち構えていると、実感しているのです。驚く事は、今後も続くであろうことも、視野に入れながら見守っていきたいと思わずにはいられないのです。