2010年10月17日(八段語録1101)

これからの極真会館の運営
極真空手の役割の役割は社会の良心

今の社会の中で、極真空手は、社会に対して、わずかばかりの影響力しかないということを重々感じるのです。映画や劇画では一世を風靡したものの、社会的役割からすると残念ながら僅か一握りの影響力しかないということなのです。社会は決して極真空手を無視しているということではないのです。
極真空手は、実際に入門する人たちにとって、人として、武士道を極め、人格完成の道を示しましたし、修行をする人にとってそれなりの答えを与えるものではあったのでした。しかし、社会生活を営む大衆に対しては、異質な世界の提示しか与えることが出来なかったのです。それが発展した形で、興業となりK-1のような格闘技としての地位だけを確立した訳なのです。
本来、極真空手は人の道を説くのであり、段位を昇るにつけ人間としての人格は公認されて行くのです。しかし、社会に影響を与える力があるかというと、僅かばかりしかないのではないかと思ってしまうのです。
それだから、社会に迎合しようという考えは師範にはないのです。極真空手を持って政治力に変える事も出来ないし、社会科学の進歩にも供与することも出来ないと思っているのです。しかし、敢えて師範は極真空手は極真空手で良いのだと胸を張るのです。
極真空手は、いかなる社会においても人間の道を示すモデルたりうると思うのです.極真モデルを捨ててまで、社会に迎合しようとは思わないのです。この点こそ、社会における道を示す良心としての強みがあるのではないかと思うのです。