2010年10月16日(八段語録1100)

これからの極真会館の運営
中国の体制で私達は生活できるか

時差ぼけが激しく、朝から歩めるかという不安がありましたが、五時起床、すぐさまパンフレットの配布をする業を、博先生と帯同したのでした。その後、お袋を、健康食品の集会所に連れていき、親父を特別擁護老人ホームへ届けて、午前の国見スイミングでの教室を指導というように、一日の歩みを午前中までに終えてしまうというハードなスケジュールをこなして休憩ということにしました。
それでも、電話の対応や雑事にだけに追われないように、さらに今書かなければならない事を、残さなければならないと、キーボードの上に手を乗せるのです。今日は、尖閣列島の漁船の問題で中国が領土問題として、挑発してきた事には、考えさせられる事がありました。中国が国家権力の正統性を徹底的に押しつけてくるのです。人の生き方と、生きる目的が変形してしまうのではないかと懸念さえ感じてしまったのです。
中国人の漁師は、日本の巡視艇に衝突させてきたのであり、動議的に見ても犯罪なのです。それが、中国の脅しに屈した日本のとった態度は、間違いにも、釈放して国内法で裁かないという事でした。中国のチャーター機である特別機で帰り、中国では英雄になっているのです。これが、中国の正当な国家権力であって良いのでしょうか。
もちろん、日本国家の中でも矛盾や理不尽は存在しています。日本社会に無数な自由ならざる組織が存在し、平等社会に無数の不平等が存在し、聖人社会でもあるべきなのですが、無数の罪人が存在しているのです。
しかし、日本国家において、自由社会、平等社会、聖人社会として機能できるのは、私達をとりまく国家権力が、自由、平等、あるいは、聖性を標榜し、もろもろの制度がそれぞれの実現のために機能しているからなのです。
その意味では、今回の中国姿勢は、自由ならざる制度が現実に存在しているのであり、平等ならざる制度も残っており、聖性なる事も無為にしてしまっているのです。このような国家権力はいかなる事が許されても、いずれは正統性を欠く時が来るのであり、中国社会は機能しなくなるのは自然の原則ではないかと考えさせられます。
ましてや、ノーベル平和賞に輝く人が、牢獄に未だに入獄させられている現実を考えると、これからの中国社会は機能しなくなる筈であると断定したくなるのは私だけでしょうか。