本部長通信56 2008年1月9日
極真の師としての指導者@
どのように,道場生を指導するかこれからの課題です。私は、三十数年の間、極真空 手を愛してきました。極真空手に対して従順に生きてきた経験を持つ者です。若かり
し頃でしたから、いろんなことが空手修練の中でありました。それが、今となって十 分活用されるようになっているのです。 三十数年の間、極真空手に対して従順に歩んできた結果、道場生を従順に導くことの
できる資格が生まれたのだと思います。大山倍達総裁の指導を受け続けてきたことが 、堂々とした指導者としての資格なのだと思います。そこには、道場生が従ってくれ
る伝統が立つことができるのだと思うのです。 ある道場では、稽古するだけで、人間関係は絶対服従というところがあります。先輩 が威張り、師範が強制して、あたかも道場の規律が保たれているかに見えます。煙草
を師範が吸うものであれば、横からライターが寸時に出てくるような関係です。どこ かの社会に似ているのです。 ところで、順応・従順な人と不平を持つ人を考えてみると、心から、師範が本当に接
することができる人は、当然従順・順応な人です。この道場で傲慢と犠牲が交差する と仮定すると、傲慢が主体になるのではなく、従順・順応が主体として残るしかない
のです。さらには言葉を変えて、強制と従順がぶつかり合うようになると、強制する ことが退けられて、従順が残るようになるのです。私たちの道場は決して強制すると
ころではないからです。それはいつも話しているように対話からなります。 この道場は、傲慢な人は必要ないのです。師範が傲慢になればそれで、道場は終わっ
てしまいます。犠牲であるとか、順応・従順であることが、対話をすることによって 新しい希望の持てる組織を作るための重要な提示であると思うのです。一般の会社で
、表面だけ繕えばいいということがまかりとおるようになると、衰退期にはいった状 態にあるというのです。夢にあふれる組織は生まれてこないし、世の中に旋風を巻き
起こす道場にはなりえないのです。