本部長通信42 2007年5月27日(日)
公式
極真会館の道場は、責任は師範になりますから、師範が最終責任者ということになります。指導者はそのことを心がけなければならないと思うのです。現場の指導で、道場生をいいかげんに扱ってはならないことは当然なことです。各道場で師範の指導方針をどのように汲み取るかを検討するのです。指導は、統制力、支配力を伴います。たとえ指導が勝手に自己中心に行ったとしても、指導者の道場生に対する所有権を主張するだけの力あるいは権威とか権利を持つわけであります。
結局師範と指導者とが、道場生に対してその所有を主張することができるようになります。道場生を二つに切断して、師範と指導者の間で分けて指導することなど物理的にも不可能であります。そこで、道場生にルールを求めるのか、それとも、指導者間でルールを決めるかということになります。当たり前ですが、我が道場では、指導者間でルールを定めているのです。師範と指導者間の間に、主体と対象という関係を定めているわけです。当然、両者の間に原則的な規約と深い信頼関係を結んでいるのです。
我が道場では、師範を主体的立場に立たせ、指導者を対象的立場に立たせているのです。ですから、命令系統としては、師範→指導者→道場生ということになります。これが公式ということになります。
ところが、この公式を反逆行為として、逆転させる指導者が現れたのでした。反逆行為によって指導者→道場生→師範としたのです。言い換えれば、反旗を翻した指導者が道場生を占領し師範を追いやった結果になっているのです。初めはこれらの指導者はこの公式どおりに育った人たちでした。この道場で黄色帯をもらい、緑帯をもらい、茶帯そして、黒帯を取得し指導者として認定されたのでした。道場の歴史に残っている人たちなのです。認定されてからの、その指導者の資質は、これから大きく伸びようとする人たちだったのです。反旗を翻した理由はいくらでもつくれるのです。
反逆した指導者は、本来ならばどうしなければならなかったのでしょうか。本来指導者が大きく発展する内容はなかったのでしょうか。師範をないがしろにして、生きていく人生は、武道精神ではないのに、武士道精神を教育していくのです。このことは、師範としては理解に困難なところです。公式を踏み外すことの悲しさは、反逆者よりも、されたものが多く感じるものだと思います。人の心を大事にする教育者としては、この事実も背負っていかなければならないのです。
極真会館の道場のこのような教訓は、私たちの指導者としての心得に残していかなければならないと思います。決して公式を無視することがない指導者の集合体であるように、毎日切磋琢磨し、与えられた公的責任を全うすることが重要なのです。私は国から保護司を委嘱されています。ゆえに、命令系統は、日本国→法務大臣→保護司→対象者という公式です。この公式を無視すれば保護司の公的位置はありません。されど、反逆すれば、国家に対するわけですから、資格を失います。公式を守れない人は、指導者としての当然資格はないのです。