本部長通信38  2007年5月21日(月)

覚悟すること


多くの人に感動を与えていくのが私たちの目的があります。手段は空手ですが、極真空手で何をするかというのです。道場で稽古を積み上げて、道場生が一歩前進することが指導者たちの喜びとなるのです。子供たちを成長させたいと思う一念なのです。私たち指導者も喜びますが、確実に成長していっている子供たちが一番喜ぶのです。なぜなら、そのぶん汗を流し、涙を流し一番努力したからなのです。指導者としての私達も、子供たちが喜ぶための行動をとるのです。夜も眠られずに明日の稽古で道場生を思い浮かべながらどうしたらよいかと思いを込めるのです。
このようなことゆえに、指導者として私達は教育に関しても、後退することはできないのです。なんら刺激と感動がないところに道場生は喜んで通うでしょうか。教育から撤収できないのです。私たちは道場生に向かって突進しようというのであります。突進することによって、道場生を喜ばせたいという気持ちでしかないのです。喜ばせるには師範一人ですることは到底できないのであります。そこに、師範代・支部長・職員がサポートすることになるのです。ましてや父母の協力は欠かせなくなるのです。
私たちはいかなることがあっても道場生の気持ちを打ち砕かなければならないのです。それがすなわち稽古であります。今のままの道場生から新しい道場生へと変身の過程を通過させるのです。私たちは子供たちの成長を見なくては目を閉じて死ねないのです。誰がなんと言っても極真空手で教育するという決心は揺るがないのです。これが師範の覚悟なのです。この目的のために、道場生をこよなく愛し、包囲作戦を取っているのであります。
道場生を包囲するためには、気持ちでたえず成長の軌跡を追及するのです。多くの労力と犠牲を払いながら、熾烈な戦いを始めるのです。まさに戦争です。成長するのかしないのか、どのように育つのかと自問自答しながら戦いが始まるのです。私たち指導者はそのような覚悟を決めなければならないのです。私たちは容易ならざる境遇において勝負を決するのです。極真空手の稽古の本質です。稽古は真剣です。だから教育において私たちは敗者になってはいけないのです。敢然として闘わなければならないのです。このような闘いを敢行することにおいて指導者の個人の事情において中断することはできないのです。
もうみっともない指導者は造りたくないのです。逃避者とならざるを得ないからです。教育の責任を背負った人は覚悟しましよう。悲惨な時もあるでしょう。絶望するときがあるかもしれないのです。しかし後退することは、私たちはできないのです。とにかく指導者としての私たちは先頭に立つのです。いつでも命を投げ出し教育のために全精力を投入する勇気を持って先頭に立つ覚悟を築くのです。