本部長通信27 2007年4月24日

極真宮城の発展の礎


 宮城野に拠点を持って活動し始めたのが、2001年7月であった。独立しての極真空手の活動が始まった。極真空手はどうあらねばならないのかをたえず自問自答しながら、模索していった。
 極真空手を理解し応援してくれたのは、他でもない、大学での恩師、高橋志郎教授である。大学院で全国の学会で森というのがいて極真空手の達人であると触れ回り、多くの教授や研究者に存在をアピールして下さった。さらに、高橋志郎教授も一緒に稽古で汗を流してくださった。全日本大会では、自ら総務のまとめ役をしてくださり、私が歩む人生の道案内をしてくださった。高橋志郎ゼミでは、当然、一番弟子であった私をいつも盛り上げてくださりゼミの中心においてくださった。空手で忙しいと見るや、留年を進めてくださり、空手に没頭することを示唆してくれた。大学院はそれゆえ四年もかかることになるが、私の空手人生を思うが故の心尽くしであった。
活動を共にしてくれたのが、菅野歩師範代であった。私が通った東北学院大学大学院の後輩ということにもなる。今の仙台道場の精神的バックボーンはこのとき、菅野歩師範代と共に築いてきた。6年近く、この仙台道場の発展の礎は菅野歩師範代の功績であるといって過言ではない。稽古での組み手の激しさは、中途半端ではなかった。日々の稽古で20人組み手、30人組み手は当たり前であった。その稽古は、汗と涙と自分の人生をかけた精神のこもった、極真精神の基準を満たすものであった。師範を中心に一体となる基準、決してあいまいな立場でなく、真剣に取り組んだ。私が成そうとすることに対して最後までついてきてくれた。
 次にもう一人、大友壯太郎師範代である。最初に出会ったのは、道場生の父兄ということであったが、いつのまにか、空手の稽古にのめり込んでいった。黒帯として確立するや否や,空手の型に重点を置いた指導を展開した。かつての道場での私に対する誤解を整理してくれた。多くの壮年達が、大友師範代を慕って、仙台道場を盛り上げることになった。
発展途上の仙台道場において、反逆や裏切りあらゆる問題に対して、いつも良きアドバイスをし、あらゆる解決点を模索して、実行していった。師範を守るということで奔走して、道場の脇の甘さを修正してくれた。
 この3人の方々が極真会館仙台道場の運命を決定したことになる。この3人の方々がいなかったら、何も事が進まなかったのだと思う。ここにおいて仙台道場の運勢と基盤を決定することができた。