本部長通信14  2006年1月19日

完全共鳴


1971年11月14日 私はその時高校三年生であった。中学・高校と続けてきた柔道も既に弐段を取得していた。部活も後輩に譲って受験勉強に勤しんでいた。当時テレビの民放では、姿三四郎をドラマで流し、子供向けには柔道一直線が人気であった。その時の私は学校教育という枠の中で反発していく状態であった。安保反対、帝国主義打倒等、学生運動に影響さていった。当時私は仙台高校にかよっていたが、徐々に共産主義というイデオロギーを支持していった。書籍も青木書店にある共産党宣言や資本論、共産主義読本と民青、共産党、共産主義と読みあさっていた。私の愛読書として今はないが朝日ジャーナルでありよく崩壊ルポなどを重点的に読んでいた。女子高・女子大の学園祭では反戦歌を歌いに行っていた。当然この頃は学校へは行かず、図書館に毎日入り浸りになっていた。
 上述の日、私の生き方に対して革命的な変化を与えてくれた恩師が現れた。社会や国家を批判するのではなく、まず自分の人生観を正せと言うことであった。私はその恩師に共鳴した。徹夜して議論した。議論する中に肉体の細胞が完全作動した。教授は六ヶ月にも及んだ。恩師とともに青葉城の急な坂道を全速力で走りあがった。息を切らしながら青葉城から見下ろす市街地は私を爆発しうる境地に導いた。私は恩師から来る刺激を音叉と同じに恩師の人格に共鳴し始めた。自動的に心身が反応し100%共鳴しうる圏内に追い込めた。知識や能力ではない共鳴するという一点であった。
 恩師の影響で次の年の4月上京することになった。私はこの方の一生の弟子であろう。今でもその時のことを考えると心が熱く共鳴するのである。  私は恩師より年を取らない心を得た。今も尊敬の念は増し加わって新鮮な気持ちにいっぱいになる。しかしながら、10年近くも道場で修練し訓練しながら、あるいは言葉の指導をしたあの弟子が、今は批判から袂を分かつとなると悲しいものがある。一生私の弟子だったということを背負って生きるのも悲しいものがある。あの弟子は私に一生関心を持ち続けるであろう。しかし、決して共鳴はしないのである。昇段の時の本部での集合写真を見ながら間違った出会いをしてしまった弟子に、心が痛むばかりである。私は最高の権威を持っているのは変わらない心であろうと改めて思う。