本部長通信10 2005年12月9日

極真空手の存在


 極真空手は、大山倍達の強さ、技、行動力、人間性を追体験することによって、初めて体現される。大山倍達の空手の強さ見せられて池袋の本部道場での稽古を続けてきた我々であった。我々は稽古の中で大山倍達の稽古を見せられそれを刺激として感動を与えられた。大山倍達の偉大さは何かといえば極真空手を実体でもって実際見せてくれたからである。それゆえ、我々は、空手の道を教えられ、それを受け継ぎ、空手の精神を継承していったのである。 それゆえ、極真空手を稽古するということは、大山倍達のような実体を築き上げることであり、それを基礎としてより発展させることなのである。極真空手を稽古せずしてその精神を受け継ぐこともできないし、ましてや刺激も感動もないのである。
 極真空手は稽古で持って我々を結びつける。さらには大山倍達の技と、人格を共有することになる。極真空手が我々と稽古を持って関係を結ぶ時、我々は、大山倍達を基盤としたより発展的な理想を備えた人格者へと上り詰めていくことができるのである。 ゆえに、極真空手は稽古を必要とする。概念だけではだめなのである。今、自分は何をやっているのか、現実に稽古をしているのかということになる。極真空手の意味合いは、大山倍達という形を持っているのである。標準的形、原型としての形があり、その上での師範は、人格的実体として一般の多くの人に稽古を通じて刺激と感動を与えていくのである。