本部長通信9 2005年12月6日

道場の本体論


 極真空手は、大山倍達の主張する実践空手を推進している。今まで伝統派空手として寸止めのルールに則ってスポーツ化してきたし、実践空手も極真会館を基盤としてあらゆる流派が育っている。直接打撃制も寸止めルールも空手の一部を把握して主張してきた。 私は、その空手の全貌を正しく把握してこそ無数に分かれている空手の派閥を理解しえるのではないかと思う。空手界は問題が多く山積している。それがオリンピックに参加できない状態も生み出している。これから極真空手道場として何を中心として運
営していったらいいのかと模索する日々が続く。
 私は、これから空手道場の運営者として、何が良いとか悪いとかという審判主としての立場ではなく善悪を超越した最良の方向を目指すべきではないかと思う。指導者の排他的な根本原因は空手の概念の本体論の曖昧さにあると思える。各道場の指導者は、自分の考え方が絶対でありそれ以外は認めない流れを作ってしまっている。結局、道場ごと絶対者のような人が存在し、絶対者が多数いて纏まりがつかなくなっている。 空手指導者を例えて言うならば春夏秋冬に表すことができる。春の力として花を咲かせる環境を持つ指導者。夏の力として生い茂らせることができる指導者。秋の力として実りを結実させることができる指導者。冬の力として全てを枯らし、次に準備しようとする指導者。各々が主張すればお互い打ち消しあう存在になってしまうが、春夏秋冬が太陽を中心として回って行けば、お互いが必要になってくる。 ゆえに、混乱を収拾し得る道場指導者としては、認め合い、調和協力することができる体制をいかに築き上げていくかが課題になると思う。家族・ファミリーが道場の本体論の中心に据えていかなければ解決されない。