本部長通信8 2005年12月6日

極真カラテの本質


私は、極真カラテを生涯の武道の道として修練してきたが、私にとっての極真カラテであって、世間一般では、たかがカラテの一分野ということになってしまう。しかし、私にとって、されど極真カラテなのである。 意味合いでいうならば、極真カラテは空気と同じと思える。空気が通っているのに普段意識してそれを感じられない。ちょうど全速力で走った人が激しい呼吸で空気を求めていく姿は、空気がなければ私たちは生きていくことができないと思えるほどである。空気は絶対に生命に必要な要素に思えるのである。極真カラテは実際に体験しないと分からない。激しく実践してみて必要性を身体で感じることができる。さらに極真カラテは体験の中で自分自身に分かる。赤ん坊がお腹の中でお乳を飲む方法を習って生まれてくるのではなく、母の目の前のお乳を吸う。また、私たちが季節の中で寒ければ寒いということを知って感じるのではなく感じて知るようになる。それと同じように、極真カラテの本質は自動的に稽古の中でわかるようになる。まさにそれは、知って認識するのが原則ではなく認識してから知るのである。極真カラテの本質は、上記のように稽古で感じる量・質がその人の極真カラテの本質になる。
 極真カラテは、私の五官の全てから入って心臓の中を突き抜ける。そして、私の心の中にまで入って住もうとする。既に私にとって一番貴重なものになってしまう。この本質は、いつも持ち歩きたいと思うし、その道から離れたくないと思える程、極真カラテを最高の宝物であると感じられるのである。私は極真カラテをしまっておく倉庫を見つけている。その倉庫は言わずとも私の心である。だからいつも私は極真カラテを重要視することができるのである。