本部長通信6 2003年3月1日

極真空手の直接打撃の意義


 私達は、創始者大山倍達がドラスチックに空手界に波紋を投げかけたことを実感している。極真における直接打撃制は誰が認めなくとも、多くの空手の流派の間でその理想を受け入れている。また、世界中の人々は極真空手の実践スタイルを支持している。直接打撃制は、選手においても、当然必要であるが、子供たちから壮年に至るまで、極真空手にとって無くてはならない真剣勝負の方向性であるということは事実なのである。まさに極真空手は直接打撃を世の中に問うたのである。それを願った創始者大山倍達の生き方や、生活の基本は、まさにここに原点があった。
 創始者大山倍達率いる極真空手直接打撃の理想は私達の理想であり、その理想は今の時代だけ果たされる理想ではなく、歴史を超越し、時代を超越しこれからも成し遂げられていく絶対的な理想なのである。ここに真実があるから武道であり、武道に生きる意味があるのである。このような極真における直撃打撃の理想があるのだけれど、果たしてその理想を私達は、実践しているのであろうか。創始者大山総裁の理想とは別の方向が今極真にありはしないかである。極真空手が一般大衆化している中で、創始者大山総裁に叛く方向になってはいないかである。ややもすると、指導者たる私達は、総裁と異にする歩みをしているのである。それは、指導者が純然たる武士道としての心構えで指導にあたっていないということである。つまり、直接打撃の精神から崩れているのである。直接打撃とはまさに、自分に厳しく怠惰な自己との衝突であり惰性を排斥しなければならない戦い方なのである。もともと極真空手において直接打撃が自分を鍛えた。私が、大山総裁にお会いし、その表現された武道に接したとき、今の自分を破壊して戦いの場に臨んだのである。その原点に立ち返って創始者大山総裁に従った自分を省み、生活の原点を直接打撃へと理想化すべきなのである。