本部長通信 4 2003年2月17日

全体の中で個人が生かされる稽古


 極真空手は、道場生と一つになって稽古をする。指導員の下、準備体操から、基本稽古、移動稽古、そして組み手に至るまで、全体がまとまって稽古する。ボクシングの個人を中心とした練習とはだいぶ違う。これは、空手の独特のスタイルであるが、道場生一人一人の無限の能力を全体が一つになることによって発揮することにつながる。稽古での臨場感を高め、我ならぬ我を追求することになる。稽古で思いっきり汗を流すに至る。これは私たちが自然に体験することである。全体が一つになって、指導員の気合の下、不思議な力が湧き上がる。決して一人では生まれない力が溢れる。このような稽古の方法は、極真の伝統として先輩たちから指導を受けてきた。その頂点に、創始者大山総裁が君臨していた。
 私は稽古の中で、創始者大山総裁がなされていることを再現しようと努力する。ここに再現した稽古は、自分を育ててくれた青春時代の汗と涙がにじんでくる。有難いことに、この稽古が自分に巳に沁みている。稽古の伝統とはありがたいことである。今まで稽古してきたすべての内容を自分が具備しただけで、何か今まで創始者大山総裁との絆が深く結ばれてくる思いがする。
 しかし、稽古における理想は、勝負に勝つことであり、己に勝つことを意味する。弱い自分の姿が稽古の最中に現れる。そんな自分との戦いが曲折する稽古の中で行き来する。弱い自己の運命を完結すべく勝負を挑む。再び本来の自分に遭遇することになる。全体で練習しながら、このような練習を経て、稽古で新たな自分を発見するのである。これは、いろいろな派閥に分かれていても変わらない極真の伝統なのである。いや、他流派といわれる多くの空手道場にも取り入れられている。指導者が変わろうと時代が変わろうと自分にとっての極真の稽古は続くのである。
 今日極真空手を中心として見るとき、分裂しているようではあるが、過渡的状況にあると定義したい。というのも、これからの勝負で次の勝利が待ち受けているのである。私たちがあらゆる切磋琢磨をするときに、極真の伝統は変わらないと宣言できるし、稽古の伝統はいまや、若者を駆り立てる何かを持っていると言って過言ではない。稽古を通して若者にいかに多くの恵沢を与えることができるか。それを考えると勝負偏重主義をとる極真空手は一人一人の胸深くに連結されていくことに気がつくのである。