本部長通信2 2003年2月1日

創始者大山倍達総裁の嘆きと私たちの使命


 大山総裁が、歩んだ空手道の道は、平坦な道ではなかったということを容易に伺い知ることができる。大山総裁が、空手の稽古を始めたのは、自宅の庭先からであった。その後、西池袋の元バレエ練習場を道場として借り入れて、「日本空手道大山道場」の看板を掲げた。
 大山総裁は、「武の道において千日をもって初心となし、万日の稽古をもって極とす」と座右の銘として語っておられたが、まさに、茨の道、血を流す道、生死の境の開拓の道を歩まれたことは言うまでもない。万日といえば、30年近くの歳月である。
 私は、極真空手に出会ってから、30年にはまだなっていないが、雑務に追われて空手の稽古ができない日々も過ぎた。身体が弱り果てていくことを痛感し、稽古への執念を再び燃やそうとする日々であった。稽古ができないとうことは、肉体の衰弱というよりは、精神力の衰退を意味した。空手は、私の精神の成長のためにあるといっても過言ではない。その「万日の稽古を持って極とす」とう大山総裁の座右の銘は今にして実感させられるのである。心を極める、道を極めるという意味での極真という言葉は、まさに真実を極めるということに他ならない。 しかし、大山総裁の本当の意味での極真は、私の抱いた意味とニァンスが違った。それは、「真実を極めた空手は極真なんだ。」ということを池袋の本部道場での稽古の終わりによく聞いた。「君たち分かるか、極心流とかじゃない。」と何度も語られた。大山総裁の心の中には流派のように極真空手を意味づける事に関しては、激怒する場面もしばしばあった。その証拠に「This is Karate」という英語の本を出版されていることからも伺い知ることができる。つまり、極真が本当の空手であって、今後極真が空手になっていくことを確信された言動であった。 このようなことを考えてみた場合、今の極真の状況は大山総裁の嘆きでしかないと結論づけることができる。極真がなになに派として分裂していく悲しみは勿論、生前生きておられた苦難の嘆きとも比較にならない気持ちが湧き上がってくるに違いない。であるとするならば、今我々はいかなることをしていかなければならないかを検討するべきなのである。
 大山総裁を師として尊敬した私たちは、今こそ総裁の願いをかなえて戦うことが使命であろう。総裁が私たちを極真空手に立たせ、育み、勝利的人生の立場を得させてくださったことを考えなければならない。これは、私たちの使命に終わるのではなく、大山総裁を慕った先輩や道場生の使命として連結させていかなければならない。ここで私たちが責任を負っていかなければならないという信念を持って立たなければ、大山総裁の前に面目が立たないのである。そういう意味において、これから難しい道が横たわっているのである。必ずや極真を標準として大山総裁の心を持って越えていかなければならないのである。