2021年2月2日(八段語録3757)
手塚グループの会長になって感じる事


故手塚会長がこの世を去ってから、四年の歳月が流れました。そして、故郷仙台に大阪から帰ってから三十年の歳月が流れたのです。選手時代に手塚会長は、私の試合スタイルに興味をもって下さっていました。全日本で、二回戦までは素晴らしい戦いをするのですが、その後、相手がシード選手であったりすると、戦う前に負けている姿に、不可思議さを感じて下さっていたのです。もう勝負が決まったような試合運びをしていたのです。勝負に対する執着心が無いようだったのです。試合での姿勢をこのグループで一緒に歩んでいくうちに、汲み取って下さったのでした。勝負以外の分野に心が向いているという事でした。その姿勢を、副会長という重職に迎えて手塚グループの発展に活用して下さったのでした。要するに試合に勝つというよりは、多くの人に良い影響を与えるという能力を買ってくださったのでした。
かつて、第一に、故郷仙台で親戚や友達がどのように私に対処してくれたかという事です。
第二に、かつての私に対しての姿勢と、極真での活躍を聞いた彼らをテストしたのでした。
第三に、意地悪を含め、私に対して数々の非礼を謝っている様子を見たのです。第四に、両親の誇れる姿に出会ったという事でした。
第一に、進学校に通っていた私でしたから、大学試験もせずに、東京に向かったという事で、敗北者扱いをしていたのでした。当然両親も家出同然の私に対して、心を痛めていたのです。それから二十年が過ぎて、極真の師範として仙台に帰ったものですから、親戚も友も認めてくれたことは言うまでもありませんでした。第二に、親戚に対しても、友に対しても、私に対する非礼に対して、申し訳なかったという気持ちをもって貰うようなテストをしたのでした。第三に、これは実に痛快な事でしたが、それでも謙虚に振舞う事を心に留めました。第四に、故郷に錦を飾るようにして、道場の運営をしている私に対して、両親が世間に顔向けできるという気持ちになってくれたのでした。立派な息子をもって喜んでくれたのは、父親でした。もうすでに十年前にこの世を去ってしまいましたが、親孝行ができたという事で、私自身胸を撫でおろしたのでした。
結論として、仙台という故郷は、理想郷ではなかったのですが、他の寄留地で培った極真をベースとしたあらゆる能力を、理想郷として花咲かせる地であることは間違いないのです。若き日の試練は、良い故郷を求めさせるものであったという事だったという実感なのです。まじめに人生を過ごすならば、試練を受け取る私の側で、人生の勝利に導けるという事であることなのでした。
いつも表現するのですが、極真という義の冠を被って、自らを聖別して、栄光への道を歩むならば、間違いはないという事です。もし、極真に出会ってなく、正しい生き方をしていなかったならば、悪に留まり悲惨な生涯を送っていたかもしれないという事です。正しい生き方をしていなければ、事実に対して間違った解釈をして、間違った結論を出して、世を憂いていたかもしれないという事です。今、心に秘めていることは、かつて手塚会長が抱いていた理想の極真家族を全世界にさらに広げ、素晴らしい団体にすることであると誓っているのです。