2020年12月21日(八段語録3749)
稽古は理想的自我を求める「うめき」


 今回は、稽古を行う事によって、「うめき」を生ずるという観点から話してみます。極真の道は稽古によりうめきながら継続する事によって、恩恵を受けるという事が判明しているのです。この観点では、私が証人という事です。継続が道を究めていく大いなるポイントであり、達成していく為の手段なのです。今回は第一に稽古による肉体的「うめき」第二に、稽古による精神的「うめき」について表現していきたいと思っています。
 第一の肉体的「うめき」ですが、日々稽古するという事は、目に見えないのですが、肉体的な変化が積み重なってくるのです。それだけに、稽古に入る心構えは、最高の自分自身を準備するという事なのです。新鮮な自分として稽古に臨むのです。最上の自分を道場に持っていくわけです。今の自分の最高値を示すのです。一生懸命に稽古を始めた瞬間、極真精神に満ちるというものです。この行為は、極真ボディを作り上げていくうえでの手付金のようなものです。また、保証のようなものであります。そこで、どのような現象が起こるかというならば、「うめき」なのです。このうめきは、「すでに」得ていると「いまだ」まだ得ていないという間の葛藤なのです。確かに稽古はしているのですが、完成は未だになっていないのです。肉体的未完成の為にうめいているのです。肉体における新世界の出現がまだであるというのです。このことに関しては渇望するほどの「望み」によって実現しようとするのです。
 第二に、心の「うめき」であります。心の弱さは道徳的弱さにも表れてしまいます。弱い精神力であるという事も自覚するのです。また理解力においても劣るというものです。稽古をすると、「ぼんやり」心の映るものを見ているのですが、次第に稽古量と質が高まるにつれて「顔」と「顔」を合わせるように精神力の無さを実感するようになるのです。徐々に言いようがない深い「うめき」が襲ってくるというものです。自分の心を探り究めようとするのです。その状態になると、成長が始まるのです。私の心は不十分であるという自覚から、欠点を補修し欠点を補おうとするようになるのです。その先は、極真精神を身に着けるようになるのです。その事が保証されているのです。この境地に至るというのが、稽古を続けていく事による確かな確信なのです。それが極真精神の恩恵というものです。
 結論として、稽古によって、眠っている道場生が「うめく」ことによって、自我の目を覚ますようになるのです。この事は驚くべきことではないのです。誰もが通るのであり、先輩たちが証人なのです。道場生は稽古によって、栄光の自分へと変えられていくというものです。私も人生を振り返ったならば、稽古によって「うめき」が与えられ、日々新鮮な歩みをすることによって、「うめき」から感動へと解放されていったような実感があるのです。当然、今も苦難を求めて日々精進です。それが私の生きがいという事にもなっているのです。栄光の実体に近づくように今日も努力なのです。人生は安楽な時は無駄な時間を過ごすというものです。