2020年12月17日(八段語録3747)
極真の力(3)


 最大の悲劇は、義務感・使命感で強制されて稽古をすることです。このような姿勢で稽古をしても、極真精神は身に付きません。むろん、自分を追い込んで疲れるのです。それで、平安と喜びの中で、極真を継続するという事であると強調してきました。もうすでに、極真の冠を被っていること、そして現在日々逞しくなっているという事、さらに、栄光の姿に輝く未来があるという事を話してきました。今回は、第一に、道場生の義務、第二に、道場生の立場、第三に道場生は素晴らしくなるという事、第四に道場生の特権について話してみたいと思います。
 第一に、道場生の義務という事です。稽古の強制の義務は、全く意味をなさないのです。強制してもすぐに挫折してしまうだけです。奴隷状態に追い込むことなど何の意味も持ちません。方向性としては、「楽しくて仕方がない」「面白い」という側面の開拓の義務という事です。「自発的に稽古をやりたくて仕方がない」という気持ちを持つことの義務という事です。
 第二に、道場生の立場です。極真という武道に触れないで、無意味に遊んでいるとするならば、心身共に衰弱してしまいます。しかし、極真で修行するならば、衰弱するような稽古をするように見えても、実に心身ともに逞しくなるのです。肉体と精神を酷使しているかのように見えるのですが、実は生きるのです。それも継続すればするほど、健全になっていくのです。そして、極真を継続するならば、理想の姿が現れるのです。
 第三に、道場生は素晴らしくなるという観点では、理想のモデルが道場内にあるのです。先輩が修練した姿を眺めることが出来るのです。道場での師範・先輩が近く感じることができ、親密になるのです。毎日道場に通う事によって、先輩との深い絆が結ばれ、具体的に理想の姿を描くことが出来るのです。道場生は、このような親密な関係に至ることを許されているのです。
 第四に、道場生の特権についてです。素晴らしい姿の相続人になる特権が与えられるというものです。強さはもちろんのこと、素晴らしい磨かれた人格はあなたのものなのです。価値ある宝石として輝くのです。当然、稽古は厳しいという事はありますが、栄光への懸け橋という事を意識して、ワクワクしながら稽古に精進できるのです。具体的にチャンピオンになりたければ、その道を歩む特権があるのです。
 結論として、極真精神は、愛情をもって心に抱くならば、多くの恩恵が押し寄せてくるのです。その恩恵を受け止めることが義務という事なのです。極真精神に留まっているとするならば、先に歩んだ師範や先輩のように歩めばいいというのが道場生の義務なのです。また、稽古という苦行は、自分を素晴らしくするためなのです。稽古があるのは、極真をマスターするためにあるのです。まさに、栄光の道を辿っていく証拠なのです。極真精神の共同相続人として、稽古をするという事実が、輝く道への第一歩という事です。