2020年12月15日(八段語録3745)
極真の力


 道場に通う道場生の最大悲劇は、頑張りすぎて疲れ果ててしまう事です。継続を一番に上げて、強くなるという事をあまり意識しないで、自分を追い込まないという事も重要です。自分で自分に重荷を課してしまうと、苦しんでいくのが自然の成り行きというものです。私の場合、安らぎと平安を得ようと気分転換をしながら、「継続こそ極真」という気持ちも大切という事だと思っています。平安と安らぎを優先させようとするようです。今回は、第一に、使命感・義務感からくる弊害を繰り返し語ります。第二に、立場を極真において、乗り越えようとするテクニックを話します。第三に、私達の前にある二つの選択肢について表現します。
 第一に、使命感・義務感からくる弊害についてですが、極真に飲み込まれてはいけないという事です。飲み込まれると極真が権限になってしまいます。使命感・義務感が先立つと良い事は少ないようです。この使命感・義務感が強くなりすぎると、時には良い作用をするのですが、疲れてしまう事になりかねないのです。実際私がそうでした。
第二に、試練を克服するテクニックです。試練の時に思い出すのが、極真に入門した時の感動という事なのです。要するに、感動した喜びを、極真の原点にするという作業をするのです。そうすると、使命感・義務感は消え去ってしまいます。この姿勢が私の武器になっているのです。さらに、稽古をして感動した思い出を追っていくという事もするのです。時には、大山総裁の地上最強の偉人の冠を被ろうともするのです。そうすると、努力もしていないのですが、強くなったという気になるものです。
 第三に、私達の二つの選択についてですが、古い自分と新しい自分を絶えず対比させようとします。何故ならば、人は心に抱いているものによって、考えと行動が違うという事です。極真をしっかり心に留めながらも、使命感や義務感ではなく、生命と平安を得るために、極真に心を開くという作業をするのです。結構安易な方向で極真を歩もうとする自分があるのです。それでも、継続することが出来れば、それで充分であるという発想も必要なのです。
 結論として、極真のブランドを誇りとしていくという事でしょう。安易なのですが、つらい事を越えていく便利なツールなのです。内容もないのですが、極真と認められるというものです。壊れそうな自分を立て直すには持って来いであると思っています。値なしに地上最強を勝ち取るのです。譬えて言うならば極真という身体の一部にあって、極真と同等の価値があると思い込めばいいのです。「私は葡萄の木、汝らはその枝なり」という格言もあるのです。繋がってさえいれば、何とでもなるという事です。極真にあってという仲間意識が自らを助けるという事になるというものです。哲学的には、位置的真理を適用させようという事になります。「寄らば大樹の陰」という事を誇りという事なのです。継続さえすることができるならば、何でも活用するというのが、私の発想になっています。そのような意味で、新しい自分の選択をするのです。