2020年12月9日(八段語録3742)
極真と共に


 手塚グループの指導の全体像を述べてみたいと思います。入門するという事は、人生において一度きりの事です。ちょうど母親から出産するようなもので、二度も三度も生まれるというわけにはいかないことです。次に日々の稽古という事になります。これは過去形ではなく、現在進行形という事になります。そして望むことは未来形の栄光の姿というのが最大の希望となる訳です。それだけに、「極真を土台として羽ばたけ」という事を主張しました。
それだけに、今回は第一によくある質問を取り上げます。第二に、具体的な例を述べて解説します。第三に整理してみたいと思います。この内容が修行の速度を高めて完成度を目指せるという事にも繋がるのです。
 それでは、第一に、よくある質問ですが、極真の冠を被っているのだから余裕をもって稽古をするという事です。ここで答えたいことは、例え地上最強の冠を被ったとしても、恩恵を放縦な考えで対応してはいけないという事でしょう。ここで手塚グループでも主張する事とは、絶対に稽古を曖昧にしてはいけないという事です。この質問に対しては、激しく厳しく否定するのです。
 第二に、具体的な例を述べて解説します。最初に、理解するには心の目を開かなければならないという事です。人間は完全な自立などあり得ないという事です。もう少し具体的に述べるとするならば、道場生には、主人は二人いるのです。自分勝手という主人と、極真における義という主人という事です。はっきり断言しますが、自分勝手という主人に仕えると死に至るという事です。そして、極真の義という主人に仕えるとするならば、人として永遠に生きるという事です。自発的に極真の義の状態を日々実践するならば、栄光の道へと輝きを増すという事です。私達の場合も極真の義に仕えたという衝撃の痕跡を持っているのです。私達が受け入れた極真の義には力があるのです。
 第三に、話をまとめてみたいと思います。自分勝手に生きた報酬は死です。極真の義に生きたとするならば栄光の懸け橋の生命に至るというものです。自分勝手の報酬は死という事は、報酬が月給やボーナスになっているのです。支払われるごとに虚しさを感じるという事です。つまり、定期的に死を実感するという事です。当然の報いという事です。しかしながら、極真の義を主人とするならば、恩恵が与えられるというものです。稽古は厳しいものがありますが、生命に至るのです。恩恵とは報酬とは違ってギリシャ語で「カリス」という言葉で、カリスマ性で存在価値が高まるというものです。これが手塚グループの願う指導の全体像という事なのです。
 結論としてどこに行き着くかというならば、極真手塚グループに、一度入門したならば、恩恵を失う事は無いのです。また、素晴らしい人格が保証されているのです。さらに、人生の完成も確証されていると言って過言ではないのです。もちろん、稽古の熱心さによって速度は違いますが、努力だけではいかんとしがたいものがあります。熱心に指導を受けるという事が願われるという事も心に留めておかなければならないのです。自分勝手という主人に仕えることは、禁物という事を心に留めて下さい、