2020年12月8日(八段語録3741)
人生の土台の極真空手


 人生の不思議というべきことが私には起こったのです。青春真っ只中での極真との出会いが、今までの人生を決定したのです。何かが人生に起こると予感はしていました。地上最強の冠を被って、最高最大の人生が始まったのでした。私が教える内容は、一段階目に地上最強の冠を被ったという事、第二段階目に、に自己の弱さからの解放をし続けた事、第三に現在進行形としての栄光の人生が継続しているという事なのです。別な形で説明するならば、一度きり出会った極真を継続する事、次に強調するのですが、現在も継続していること、そして、栄光の未来に向かっているという事を言うのです。そこで、第一に今回は予想される質問について、第二に武道としての議論 第三に極真の適用という事について語っていきたいと思います。
 第一の予想される質問ですが、当然読んで下さっている方の喚起を狙っての話になります。入門したならば、もうすでに地上最強の冠を冠るのかという事です。入門して稽古もせずに放縦な生活をするとするならば、無意味に帰するという事です。まして、いい加減な稽古をするとするならば、その冠は朽ち果ててしまうという事です。
 第二に武道としての議論です。武道ですから真剣に稽古する事が絶対条件になります。極真精神には鋭く反応しますが、安易な快楽には反応してはならないという事です。極真にあって、新しい人生を出発させるのです。稽古での汗と涙が新しい次元に引き上げてくれるのです。私に起こった事は道場生にも起こるという事です。それは極真による新しい歩みがあるというものです。稽古をすることによって、古い自分が脱ぎ捨てられ、新しい衣を着るかのように稽古は嘘をつくことは無いのです。当然、誘惑もあるでしょうが、その誘惑が主人のような権利を持つことはないのです。極真にあって生きたものとして歩みをすればいいだけなのです。自分の弱さという誘惑は、稽古によって法的権利を失うという事です。
 第三に適用に入ります。それだけに世の放縦に従わないようになるのです。肉体だけの欲望に従うという事にならないようにするのです。つまり正しい継続した行為や状態を極真で保つという事です。というのも、一歩間違えばこの手足は不義の器になる可能性は十分にあるのです。それだけに、稽古によって心身を清めるという事にもなるのです。せっかく入門を一度決断したのです。義の器としての四肢五体になる可能性を秘めているのです。そうすると、惰性が道場生の体を支配するという事は無くなるのです。稽古はまさに恩恵をもたらす栄光への懸け橋という事になるのです。
 結論として極真での稽古での汗と涙は、心を清める賜物になるのです。道場生が一同に清き汗と涙の虜になるのです。この稽古の継続が、死んだような自分を、生命に至らせるパワーとしての魅力になるのです。道場生は誰でも古い着物を脱ぎ去って、新しく作られた者になるというものです。極真空手との一体化が人生の土台となる内容の話をしたのでした。
私の人生の経験は嘘はつかないと信じることが出来るのです。