2020年11月24日(八段語録3734)
極真精神と世間の調和は義の精神でもって


 第一に、人の誇りはどこにあるのかという事を考えてみたいと思います。第二に、道場生と一般の人達との違いも検討したいと思います。第三に、極真精神は、世間と調和すべきであると強調するのです。
第一に関してですが、誰もが自らは大切であると思っています。私達道場生も自らを大切にしています。そこで、今日は、少し違った観点で考えてみたいと思います。というより根本的に発想を変えていく事も必要なのです。普通に、知識や学歴を誇り、家柄や名士であることを誇り、自由はもとより、自分自身の事は自分でできると豪語するのです。私としても、極真精神で生きてきたという誇りと、社会人として根を下ろしていることを誇っているのです。ところが、これから極真精神をもって義に活路を見出すとするならば、誇りを締め出さなければ、続けていく事が出来ないようです。誇りを持つという事が、傲慢になっていく事につながることに、気がつく年齢に達してきているのです。人生を継続するには、謙虚が一番という事にもなるのです。
第二に極真の道と世間との違いですが、精神状態を維持していく事に価値をおくと、極真精神は稽古と共に継続することが可能であるという事です。道場という環境があるのは有利に働くのです。それでは、極真精神と世間の精神が違うと発想して、多契約として、どのようにしてでも、「精神状態を維持していけばいいのだ」という結論に達しがちです。しかし、否という事を主張するのです。それは、ここで義という概念が重要になってくるのです。どのような精神でも、義に至るという観点では、一つの契約ということです。義であり続けるという事が、全ての人に適用されるという発想からなのです。あながち、義に導くための指導者の役割を極真精神が担う事が出来るならば幸いという事です。
第三の極真精神と世間との調和ですが、世間が放縦になっていくという事に対して、私達は、指導的であるべきであるという観点で調和すべきであるという事です。かえって、世間の秩序を確立させるための存在であるのです。その為の青少年教育を積極的に押し進めていくのであり、世間に極真精神を投げかけて、「義の道」へと導く使命があるというものです。資本主義の世の中で、営利が追求される世の中に、義への招待をするのが私達でありたいものです。とりあえず、極真の修行は厳しいのです。ダブルスタンダードではなく、自分に厳しく、世間に投げかける極真精神であるのです。それでもって、世間の願いを果たせるという思いにつながるのです。
結論として、人が余計にしている誇りや邪魔なアクセサリーを取り除き、義への招待をするならば、私達の影響を与える活路はあるというものです。ためらうことなく、極真の稽古を続けていこうではありませんか。